2025年4月25日金曜日

謎ときエドガー・アラン・ポー―知られざる未解決殺人事件―

「 謎ときエドガー・アラン・ポー―知られざる未解決殺人事件―」(竹内康浩著)を読んだ。最近はオーディブルで聴いてばかりいたけど、千里中央の田村書店で見つけて即買いして一気に読んだ。エドガー・アラン・ポーの短編「犯人はお前だ」(これまで読んだことなかったであります)から、知られざる未解決殺人事件があることを読み出し、「物語の語り手」がその犯人であると推理している。「語り手」の語りの裏を読んでいく謎解きは鮮やかだった。また、本書の後半では、「犯人はお前だ」の構造、オリジナルとコピー、を起点として、ポーの作品論まで展開していて力量は文学者の底力を見た気がした。。

がしかし、本書を読んだ後も、いくつかもやもやした疑問が残った。

一つ目は、探偵役であり、さらに本書で竹内氏に犯人と名指しされた「物係の語り手」って誰?という疑問である。この語り手は、シャトルワージー家の内情に異様に詳しく(イロイロ立ち聞きしすぎ)、かつ、シャトルワージー氏の捜索に参加しなくてもそれほど怪しまれず、グッドフェロー氏に殺意を抱く同期があり、かつ、グッドフェロー氏の企画したパーティーに呼ばれるステイタスがあり、後述のように、「私の使用人」を持っていてさらに、周囲から全く怪しまれてなかった人物である。角川文庫『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』で「犯人はお前だ」の新訳を行った河合祥一郎氏の訳文を読む限り、河合氏は「物語の語り手」を殺されたシャトルワージー氏の執事と推定したらしい。確かに執事だと、シャトルワージー邸内での様々な目撃証言もつじつまがあう。また、シャトルワージー氏が、シャトーマルゴー1ケースをグッドフェロー氏にプレゼントするから発注してくれ、と依頼しても、執事ならもみ消すことは可能であろう。唯一、ちょっとヘンなのは、話の最終局面で「私の使用人に箱を運び込むよう指示した I gave instructions to my servant to wheel the box」と言っている点である。執事は、屋敷にいる使用人を「私の使用人」と呼ぶ事はあるのだろうか?

次の疑問は「犯人はお前だ」の中で、語り手が物語の叙述を離れて自分の意見を展開し出す点である。わざわざ持ち出すということは、そこにヒントが隠されているのは間違いないだろう。最も紙幅を割いている、すなわちもっとも重要そうな持論が、「過去の小説の中で、ラテン語のcui bono? を、何のために?と訳してきたのは間違いであり、だれが得をするのか?と訳すのが正しい。」と述べている点である。わざわざここまで言うからには、隠された未解決殺人事件の犯人も何かの利益を得ていたはずである。結果的に、甥のペニフェザー氏は、財産を相続するという利益を得たが殺人犯ではなさそうである。では、殺人犯の執事が得た利益って何なのかがはっきりしない。

さらに、「犯人はお前だ」には、誰かを犯人に名指しした人は、次に誰かから犯人と名指しされる。という構造があることは明らかである。グッドフェロー氏がペニフェザー氏を犯人と名指しし、次は、「語り手」がグッドフェロー氏を犯人と名指しし、さらに、本書の著者の竹内氏(「犯人はお前だ」の読者でもある)が「語り手」を犯人と名指しした。となると、ペニフェザー氏はこれ以前に誰かを犯人と名指ししたのかもしれない。

ポーは「犯人がお前だ」の翌年に「盗まれた手紙」という作品を書いている。「盗まれた手紙」は「犯人がお前だ」の攻略本でもあるらしい。内田樹の「物語の構造分析」にものすごく見事な解説があるので、ぜひ、多くの方に読んでもらいたい。「盗まれた手紙」が教えてくれる攻略法とは、人は秘密をどのように隠すのか?という点と、秘密の持つ機能である。

まず、人は秘密をもっとも目のつきやすいところに隠し、秘密を暴く人は自分が隠しそうなところを探す。という教訓である。「盗まれた手紙」では大臣は盗んだ手紙をリビングの状差に隠し、そこには何もない、というフリをしなくてはならなくなって動きが怪しくなる。それを探す警部は、自分が隠しそうな屋敷の屋根裏とか、椅子の隙間などを探すので見つからない。

では、「犯人がお前だ」に何かが隠されているとして、それはどこに隠されているのか?誰にでも目に付くが、あまり覚えてないところというと、冒頭ではないだろうか。

「犯人はお前だ」の冒頭は以下である。

I WILL now play the Œdipus to the Rattleborough enigma. I will expound to you — as I alone can — the secret of the enginery that effected the Rattleborough miracle — the one, the true, the admitted, the undisputed, the indisputable miracle, which put a definite end to infidelity among the Rattleburghers, and converted to the orthodoxy of the grandames all the carnal-minded who had ventured to be skeptical before.

これを見る限り、本作を読むときには、オイディプスの神話の”infidelity”(この後には不貞という意味が強いようだ)を意識しろ。と、WILLの強調からこれから悲劇は起きる。と言っているように見える。では不貞とは何か?悲劇とは何か?となるが、何しろ名前がついた登場人物が3名+語り手の4名だけの世界なので、文章の矛盾や言い回しを手がかりにいろんな可能性を推測できるだろう。グッドフェロー氏が、ペニフェザー氏のことを、シャトルワージー氏ではなく「グッドフェロー氏の相続人」と呼んだという一件だけからも、やおい的な過去をいくらでもやおい的な妄想の世界が展開できそうである。

次の疑問は、「語り手」をどれくらい信頼するのか?である。「 謎ときエドガー・アラン・ポー」では、「語り手」の語りの微妙な矛盾から(一つの出来事を伝聞として記述したときと、自分の体験として記述したときに内容が異なる)、「語り手」をいわゆる「信頼できない語り手」とみなし、「語り手」が話す内容の一部(シャトルワージー氏が酔っ払って、シャトーマルゴー1ケースをグッドフェロー氏にプレゼントすると言っていたという、語り手の証言)が虚偽であると主張してる。

確かに、「語り手」自身が、「捜索の結果、何の手がかり(no trace)も得られなかった」。と言った後、「When I say no trace, however, I must not be understood to speak literally; for trace, to some extent, there certainly was.私が手がかりがないと言っても、それは文字通りに受け取られるべきではない。」と警告してくれている。

では、記述の微妙な矛盾や、「語り手」自身の警告をもとに、読み手はテキストの一部を虚偽とみなしていいのだろうか?もちろん、正解はもはや存在せず、全くもって自由に読んだらいいので、どこをどう虚偽を見なすのもアリである。が、やはり、ここでは「意図的ないい落とし、誇張はあるにせよ、テキストにあからさまな虚偽はない」という前提に立って解読を進めるべきではないだろうか?理由は2つあり、1つ目はそうしないとなんでもアリになってしまい、ゲームとして収拾がつかないこと、また、善意の原理(テキストの内容は概ね正しいとして解読する)を適用した読解の方が、面白いに決まっているからだ(学生の頃、この善意の原理が、レーブの定理そのものであり、推論者が決定不能状態になる、という「科学論科学史基礎論」のレポートを書いたことがある。が、内容は忘れた)。

「語り手」がわざわざ警告しているからには、「犯人はお前だ」のどこかに、文字通りに受け取るべきはない場所があるのだろう。さらに、何かがそこにない、と言っている場所に限られる。そこで「no なんちゃら」という表現を本文中で検索すると22ヶ所ある。このうち、「語り手」の1人称の部分でもっとも印象的な用法は no doubt で、例の怪しい部分である。

私は「オールド・チャーリー」が旧友からワインを受け取ったことについて何も言わないという結論に至った理由を何度も想像して頭を悩ませてきましたが、彼が沈黙していた理由を正確に理解することはできませんでした。もちろん、彼には何か素晴らしい、非常に寛大な理由があったに違いありませんが。I have often puzzled myself to imagine why it was that “Old Charley” came to the conclusion to say nothing about having received the wine from his old friend, but I could never precisely understand his reason for the silence, although he had some excellent and very magnanimous reason, no doubt.

要するに、秘密にしておきたい何か素晴らしくない、寛大でもない理由があったのですよ、と言っているように読める。

このように、気になった読者は、あれこれ推理するのである。ここが「盗まれた手紙」が教えてくれる攻略法に再び目を向けるタイミングであろう。それは、秘密を暴こうとするわれわれは、自分が隠しそうなところを探す。そして、何かを見つけたとしても、それは、自分の願望(たぶん自分が隠しておきたいもの)の反映でしかない。という点である。われわれは自分の推理を通じて自分に出会うのだ。

それから、秘密(手紙)を盗んだ人は、秘密の持つ権能に抗えず、必ず秘密を盗まれる側に回るという構造を持っている。という秘密の機能である。「犯人はお前だ」つまり「私は貴方の秘密を知っている」言って、勝とうとすると必ず次に負ける。という教訓である。一昨年度にミステリ大賞を総なめした「地雷グリコ」でも、主人公が、「ゲームの必勝法とは相手に勝ったと思わせることである」と語るように、広く知られている教訓であり、皆よく理解しているハズであるが、どうしても「犯人はお前だ」と言いたくなる欲望になかなか勝てない。少なくとも「 謎ときエドガー・アラン・ポー」を書いた竹内氏も、こんなブログを書いている私も、秘密の持つ機能に抗えず、必敗の道を歩みつつあるのだろう。いつか竹内氏と読者である我々は、誰かから「犯人はお前だ」と名指しされる番が来るはずである。楽しみである。

ちなみに、「物語の構造分析」では、負けない方法も教えてくれる。あえて負けてみせること(これは地雷グリコの教訓おなじ)。秘密をパスすることである。「 謎ときエドガー・アラン・ポー」は大変優れたパスであることは間違いなく、少なくとも私はそのパスを受けた。





2025年4月12日土曜日

暇と退屈の倫理学

「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)を読んだ。オーディブルで聴いて驚いた。 「暇と退屈」こそが人間の根幹にあるという視点を通じて、農耕の起源から、マルクスの疎外論、ハイデガーの現存在に、ドゥルーズ、はやりの脳科学まで語りつくしてしまうのだ。 例えば、農耕が始まってから、国家の形成までの4000年の間、いったい人類は何をしていたのかが全然解明されていない。スコットの「反穀物の人類史」でも、農耕の社会が何度もできては崩壊してきたこととか、グレーバーの「万物の黎明」でも、説明に窮して、その間遊戯的な農業が行われていたに違いない。という概念の提出にまで至っている。定住しなくても狩猟採集で豊かに暮らせたのだから、定住して農耕するメリットなど全くないのに、あえてそれを選んだ理由がみつからないことに歴史家たちは困惑してきた。「暇と退屈の倫理学」でも、狩猟採集で非定住こそ、日々新しい刺激にあふれたヒトが大好きな生活であるのに対し、農耕で定住するとヒマになってしまうことが指摘されている。が、ヒマの退屈に耐えられない人が暇つぶしにいろいろ試すと、文化ができたり専制国家ができたりするんじゃないか、という説明はこの問題に面白い視点をもたらすように思う。さらに、マルクスの疎外論では、退屈=疎外と定式化される。そうすると疎外される以前の「(暇じゃない)本来のあるべき姿」がどうしても想定される点が限界だと本書は指摘している。ほぼ同じ議論は、これまたグレーバーが「ブルシットジョブ」でしているのだが、疎外の解消ではなく、疎外を生み出す構造だけを問題とすることで、そもそも論をうまく回避していたりする。國分功一郎がグレーバーについてコメントしているならぜひ読んでみたいと思った。また、ハイデガーのこういう平明な解説はいままで見たことがないので画期的なんじゃないだろうか。全く知らない内容だったのでとてもためになった。
「暇と退屈の倫理学」は、人間が何もすることのないヒマになると、退屈に耐えらなくなって、どうしても何かしたくなる本性を持っている点に立脚している。本書の懸念は退屈して何かしたくなった時に、「これを信じておけばOK」的な安易かつ一元な価値基準を採用して、他人を見下したり、批判したり、戦争したりするような暇つぶし方が幅を利かしている現状にある。そこで、そうならないように生活や趣味のなかに、楽しみを見つける教養こそが大事だ。というのが本書の主な主張である。一元な価値基準を採用への対抗軸としては、有用というか、すごく人にやさしい議論である。しかし、気を付けなくてはならない。これはもう完全に、「庶民には日々の暮らしや学問に楽しみを見つけさせて、吾輩の支配体制に不満を持たせないようにしようぞ。わはは」、という支配階級のロジックそのものでもあるからである。人はパンのみに生きるのではなく、、、という話のあとに、薔薇を求めていい(でも銃はダメ)、という國分の超上から目線は、極めて危険な政治的立ち位置であるように思える。革命が不要な社会、ということは、革命後の社会なのであり、そこでの生活の意味を担保する記号的中心に何を持ってくるのか(天皇?)が興味深い。あと、この本を聴きながら、「ゲーテはすべてを言った」(鈴木 結生)を思いだした。この本は、ゲーテ研究科の大学教授が、レストランで見つけたゲーテの言葉「Love does not confuse everything, but mixes.」が本当にゲーテのものなのか?という謎に人生を賭して臨んでいくという話である。学者のはしくれとして、感動なしには読めない。でも、これを読んでいると、金井美恵子の「快適生活研究」も思い出さざるを得ないのである。このなかに、目白在住で「よゆう通信」という個人新聞を定期的に知人に配っているリタイアした建築家、というのが登場する(もちろん金井美恵子はこういうのを死ぬほど馬鹿にしているのだ)。ゲーテ研究家の大学教授も「よゆう通信」を発行する元建築家も、パンには困らないので、バラの美しさを楽しめる、國分功一郎が理想とする教養豊かな人たちであるように思う。「暇と退屈の倫理学」以降の展開と「よゆう通信」の関係をみてみたいので、國分功一郎の続刊を聴いてみようと思う。