「暇と退屈の倫理学」は、人間が何もすることのないヒマになると、退屈に耐えらなくなって、どうしても何かしたくなる本性を持っている点に立脚している。本書の懸念は退屈して何かしたくなった時に、「これを信じておけばOK」的な安易かつ一元な価値基準を採用して、他人を見下したり、批判したり、戦争したりするような暇つぶし方が幅を利かしている現状にある。そこで、そうならないように生活や趣味のなかに、楽しみを見つける教養こそが大事だ。というのが本書の主な主張である。一元な価値基準を採用への対抗軸としては、有用というか、すごく人にやさしい議論である。しかし、気を付けなくてはならない。これはもう完全に、「庶民には日々の暮らしや学問に楽しみを見つけさせて、吾輩の支配体制に不満を持たせないようにしようぞ。わはは」、という支配階級のロジックそのものでもあるからである。人はパンのみに生きるのではなく、、、という話のあとに、薔薇を求めていい(でも銃はダメ)、という國分の超上から目線は、極めて危険な政治的立ち位置であるように思える。革命が不要な社会、ということは、革命後の社会なのであり、そこでの生活の意味を担保する記号的中心に何を持ってくるのか(天皇?)が興味深い。あと、この本を聴きながら、「ゲーテはすべてを言った」(鈴木 結生)を思いだした。この本は、ゲーテ研究科の大学教授が、レストランで見つけたゲーテの言葉「Love does not confuse everything, but mixes.」が本当にゲーテのものなのか?という謎に人生を賭して臨んでいくという話である。学者のはしくれとして、感動なしには読めない。でも、これを読んでいると、金井美恵子の「快適生活研究」も思い出さざるを得ないのである。このなかに、目白在住で「よゆう通信」という個人新聞を定期的に知人に配っているリタイアした建築家、というのが登場する(もちろん金井美恵子はこういうのを死ぬほど馬鹿にしているのだ)。ゲーテ研究家の大学教授も「よゆう通信」を発行する元建築家も、パンには困らないので、バラの美しさを楽しめる、國分功一郎が理想とする教養豊かな人たちであるように思う。「暇と退屈の倫理学」以降の展開と「よゆう通信」の関係をみてみたいので、國分功一郎の続刊を聴いてみようと思う。
2025年4月12日土曜日
暇と退屈の倫理学
「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)を読んだ。オーディブルで聴いて驚いた。
「暇と退屈」こそが人間の根幹にあるという視点を通じて、農耕の起源から、マルクスの疎外論、ハイデガーの現存在に、ドゥルーズ、はやりの脳科学まで語りつくしてしまうのだ。
例えば、農耕が始まってから、国家の形成までの4000年の間、いったい人類は何をしていたのかが全然解明されていない。スコットの「反穀物の人類史」でも、農耕の社会が何度もできては崩壊してきたこととか、グレーバーの「万物の黎明」でも、説明に窮して、その間遊戯的な農業が行われていたに違いない。という概念の提出にまで至っている。定住しなくても狩猟採集で豊かに暮らせたのだから、定住して農耕するメリットなど全くないのに、あえてそれを選んだ理由がみつからないことに歴史家たちは困惑してきた。「暇と退屈の倫理学」でも、狩猟採集で非定住こそ、日々新しい刺激にあふれたヒトが大好きな生活であるのに対し、農耕で定住するとヒマになってしまうことが指摘されている。が、ヒマの退屈に耐えられない人が暇つぶしにいろいろ試すと、文化ができたり専制国家ができたりするんじゃないか、という説明はこの問題に面白い視点をもたらすように思う。さらに、マルクスの疎外論では、退屈=疎外と定式化される。そうすると疎外される以前の「(暇じゃない)本来のあるべき姿」がどうしても想定される点が限界だと本書は指摘している。ほぼ同じ議論は、これまたグレーバーが「ブルシットジョブ」でしているのだが、疎外の解消ではなく、疎外を生み出す構造だけを問題とすることで、そもそも論をうまく回避していたりする。國分功一郎がグレーバーについてコメントしているならぜひ読んでみたいと思った。また、ハイデガーのこういう平明な解説はいままで見たことがないので画期的なんじゃないだろうか。全く知らない内容だったのでとてもためになった。
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