「行動経済学の逆襲」(リチャード・セイラー, 遠藤 真美 (訳))をオーディブルで聴いた。
本書の主張は、経済学が前提に置く「合理的経済人(エコン)」モデルでは、説明がつかない現象がたくさんあること、その現象は、損失回避 (人々は損失を回避しようとする意思決定をする傾向が強い心理学的な現象)などの人間の心理現象をモデルに導入することで一部説明できる、さらに、作成したモデルを予測モデルとして活用すると、人々の行動を特定の方向にそっと誘導する手法、ナッジ、を構築できる。というものである。それを行動経済学を開拓した第一人者である著者の一代記として紹介しており、とても面白かった。
が、本書がその後巻き起こすであろう影響という観点では、すごくありがちに兆候的な本だとも思った。
こういう本、ある分野を開拓した第一人者が、その経緯を回想しながら紹介する、の例として思いつくのは、例えば、グールドの「ワンダフル・ライフ」であろう。「ワンダフル・ライフ」でも「行動経済学の逆襲」でも、研究過程で出会った、多くの同僚や、仲間、論敵などが生き生きと描かれる。本を読んでいると、著者がグループのリーダー格で、チームはみんな仲良し。というイメージをなんとなく持ってしまうのだが、「ワンダフル・ライフ」の訳者あとがきによると、グールドのもっとも重要な共同研究者が、「ワンダフル・ライフ」をボロカスに言っている。という話が紹介されている。あくまでも、仲良しイメージは、著者の一面的な感想にすぎず、さらに、グールドが周囲からなんとなく浮いているような、研究コミュニティーあるあるな風景が垣間見えるのが、大変興味深かった。本書でも、リチャード・セイラーは自分のリア充ぶりをわりとチラ見せしてるし、本書を出してすぐ、2017年にはノーベル経済学賞を受賞してしまうので、さらなるやっかみはさけられないだろう。なので、ほんとのところどうなんだろか?と野次馬根性がうずいてしまった。オーディブルには「訳者あとがき」はないのだけど、書籍版なら何か手掛かりがあるのかしらん。
また、本書はかっこいい。旧来の合理的経済人モデルはすでに過去のものであり、行動経済学が提案する、より包括的なモデルを使うことで経済学はより現実を説明することが可能となり、その成果を活用したナッジを開発することで社会をよりよくできる!という展望が示される。示された展望はとっても魅力的で、へぇー度も非常に高く、「行動経済学」という学問の可能性を社会に紹介するという役割は十全に果たされているだろう。
すると、ありがちな反響がおきる。特に「より包括的なモデル」にいち早くキャッチアップした、アーリーアダプターが続々と登場して、「より包括的なモデル」がうまくいった例が続々と提出されるようになる。アーリーアダプターには2種類ある。1つめは、ある未解明の現象の一面が「より包括的なモデル」で説明できた。という研究者だち。こういう人たちは、自分の見ている現象の不可解さをよく理解していて、その解明につながる「何か」を常に探しているし、かといって、「より包括的なモデル」ですべてが説明できたわけでもないことも知っているのであんまし深入りはせず、すぐ自分の研究領域に帰っていく。ただ、そういう報告が相次ぐと、「より包括的なモデル」というのがかなり普遍的のように見えるようになり、社会的な期待が高まるブームっぽい状況になる。すると、その期待に応えるのは私ですという、ファッショナブルで革新者っぽいイメージを纏った次の一群が登場し、「より包括的なモデル」のややせこめの適用例が山積みとなりはじめる。しかし、しばらくすると、実験がぜんぜん再現しないとか、「より包括的なモデル」の例外も多く見つかるようになり、「(かなり限定された条件での)より包括的なモデル」であることがわかりはじめ、最終的には、「この包括的なモデルが適用できる条件」などが解明される検証期を経て、研究ツールとしての評価が確立する。というあまりファッショナブルではない状況となる。そのころには、みこしをかついだみなさんは、新しい「より包括的なモデル」に移行していて特に反省はない。という光景は、「利己的な遺伝子」「散逸構造」「システム」「カオス」「スケールフリー」などを経たわれわれには見慣れたありがちなものであろう。
実際、行動経済学でも、2020年ころに「行動経済学は死んだ」という記事が出始め、再現しない、とか、例外がみつかるという状況になったらしい。さらに、つい最近には、日本でも、「行動経済学の死: 再現性危機と経済学のゆくえ」という本が出たりして、検証期に入っているようだ。
ナッジの話を聞いて2つ感想を持った。ひとつは、これは流行の話ではないかということである。音楽や、消費行動、ライフスタイルに流行があるのはいうまでもない。しばらく流行したあと、あっというまに忘れ去られるもののあれば、選択肢の一つとして定着していくものもあるが、いずれにせよ、流行は次第に飽きられて長続きはしない。学問分野にも流行りすたりがあるのも当然だろう。さらに、流行とは、人為的な働きかけの結果、人々が行動を変容させて起きたものであり、ナッジが目指すものそのものではないだろうか。そうすると、あるナッジに効果があったのは、「バズった(<=これももう古い)、流行った」のであり、そのうち飽きられて効果を失ってしまうこともあるような気がする。行動経済学は「ヒューマン」の選好を公理的静的に扱おうとしているように見えるが、じつは選好そのものが、かなり飽きっぽいものなのかもしれない。
もう一つは、ランダム化比較試験(RCT)の使い方である。介入実験では、サンプルを介入した区と、介入しなかった区の二つに分け、結果の比較から、ある介入に効果があったかどうかを統計的手法をもちいて判定する。RCTは、意図した介入以外の要因が結果に影響しないようにするための、実験デザイン方法の一つである。「行動経済学の逆襲」でも、RCTは熱烈推奨されている。RCTを導入する目的は、「ある介入には、こんなに顕著な効果があった。RCTで得られた結果であるから、この効果が他の要因に起因するという説明はできない」という、バイアスの排除にある。一方、RCTを導入すると、バイアスに隠れがちなすごく小さな効果も検出できてしまう。なので、RCTが、「ある介入には、小さいけれど介入に起因する統計的に優位な効果があった」という小さい効果を検出するために使われ、さらにいつのまにか「小さいけれど」の部分が無意識的になくなり、「ある介入には効果があった」という話になってしまいがちである。「行動経済学の逆襲」でも「効果は小さいが効果は確かにあった」という説明がちらほらあった。こういう結果はもちろんあまり再現しない。
ちなみに、こういう議論は生物研究、特に創薬の分野ではおなじみのものであり、ある剤が効いたり、効かなかったりする異なるRCTの結果に対しては、「コンテキスト依存的である」というクールな評価をする。あまり効かない剤でもなんとか臨床に持っていくために(投資を回収するために)、ある剤が効くコンテキストの人をゲノムデータとかを用いて選び出すことを「個別化医療」とか「テイラーメイド医療」とか呼ぶ。この例に倣うと、そのうち、ナッジを活用した政策パッケージにも「個別化ナッジ」とか「テイラーメイドナッジ」とかが出てくるんじゃないだろうか。でもこれって、いわゆるマイクロ・マーケティングそのものであり、個人のコンテキストを推定するための、行動履歴データが必要となる。そのうち税務署が、税金滞納のテーラーメイド督促状の作成を、データを持つグーグルやアマゾンに依頼する時代が来るのだろうか。。