2025年5月6日火曜日

マタイ受難曲

 「マタイ受難曲」(磯山雅、ちくま学芸文庫)を読みました。それから4月12日には大阪バッハ合唱団 第29回演奏会のマタイ受難曲を、西宮北口は芸術文化センターKOBELCO 大ホールまで聴きに行きました。さらに、レオンハルト版のマタイ受難曲を休みの日に通しで聴いてみました。

「マタイ受難曲」を初めて聞いたのは今からたぶん27年くらい前で、1998年に出たブリュッヘン版のCDを買って、ながらく聴いてきました。ドイツ語の歌詞を聞き取れるはずもなく、受難の意味もよくわからないまま、ただ、何か抜き差しならない切迫した感情とその中なら立ち上がる美しいコラールに惹かれてきたのです。また、1999年4月1日にシンフォニーホールで行われたバッハコレギウムジャパンのコンサートを聴きに行き、一番安い2階席の端で通しで聴く機会がありました。そのとき、イエスの遺体を引き取った後に流れる第65曲バスのアリア 'Mache dich, mein Herze, rein' のとき、右側のパートのバイオリンのお姉さん(この曲では出番なし)が、ノリノリで音楽に聞き入っているを見て、この曲の素晴らしさに気づき、以来、何度も聴き返してきました。

「マタイ受難曲」の歌詞の意味がわからず、当時岩波から出ていた、佐藤研翻訳、注釈の「新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書」を読んでみたりしたのだけど、信心のない私には歯が立つはずもなかったのでありました。

最近になって本屋で磯山氏の「マタイ受難曲」を見つけて、これこそが私の探していた本であることに気づきました。本書では、マタイ受難曲の歌詞がなぜ、こうなったのかを説明してくれます。まず、マタイによる福音書への、ルターによるプロテスタントからの解釈があり、それをもとに受難を論じたハインリッヒ・ミュラーの論考があり、そこで展開された様々な概念がピカンダーによる歌詞となったそうです。バッハの蔵書には、ミュラーの論考があり、バッハの作曲も強く影響を受けていることが確認できるそうです。例えば、序曲でイエスが子羊の花婿に例えられてるのも、何でやろ?と思っていましたが、長い聖書の読解の中で作られた比喩であると教えてもらえます。次の、「ベタニアの香油」として知られるエピソードは、ベタニアで食事中のイエスの体に、一人の女が超高価な香油を注ぐ。周囲の弟子たちは、「もったいない、それを売ったお金で多くの人をすくえるのに」、といって怒るが、イエスはこの福音が世界に延べ伝えられるときには、この女のしたことも語え伝えられるだろう」といって擁護する、というこれまたなんで?という話です。これも、当時の習俗や聖書解釈を踏まえて「イエスへのあふれるばかりの尊敬、感謝、そして愛情に促されてのものであったに違いない。」と、まるで我々読者の手を引くかのように、この受難の世界へと連れて行ってくれるのです。

読み進めながら、第65曲バスのアリアを磯山氏がどのように解説するのかは大変楽しみでした。 'Mache dich, mein Herze, rein, ' は、私の心よ、おのれを清めよ。と訳せます。これは、ミュラーの「イエスの形見をもらい受けた心は、自らを清め、イエスを内面に葬り去ろうとする。」という発想に基づくものであること、このアリアが清浄の気に満ち、冒頭の合唱曲からは、「なんと異なった世界となったことだろうか」との説明の後、2行目、「Ich will Jesum selbst begraden」は直訳の「私はイエスを自ら葬ろう」ではなく「自らを墓として」と解さねばならないとしたあと、本書の中でここだけ、磯山氏が学生時代の演習時に、師匠の杉山好教授から聞いた、「この歌詞のselbstがmein Herzeから14番目の音であることに気づいてから、この部分を「おのれの心を墓となして」としか訳せなくなったとおっしゃった」と紹介しています。BACHをアルファベット順に足していった14はバッハにとって特別な数なので、ここでの「おのれ」とはバッハ自身のことであるという指摘です。これを受けて磯山氏も、「この音楽がバッハ自身の決意であり、彼の信仰告白の表現であると、感じないわけにはいかなくなってしまった」とのべ、この曲の素晴らしさの源泉がどこにあるのかを教えてくれるのでした。

本書が素晴らしさは、磯山氏の読者への姿勢と語り口にあります。p148の「しかし《マタイ受難曲》においてバッハはさらにその先を行く、、、われわれはそれによって、」という語り口とは、読者であるわれわれを信頼してマタイの世界に引き込みつつ、その上で確信をもって語りだそうとするものにしか、書くことのできない文章であると思いました。作品と読者への愛に包まれた文章であり読んできてものすごく元気が出るのです。また、本書を一読して思ったのは、「マタイ受難曲」という音楽の素晴らしさ(あるいは作品へのおのれの愛)を、より多くの読者に説明するべく、これだけの知見と研究成果を語りに語れることは、間違いなく学者冥利に尽きるだろうということ、さらに、読者であるわれわれも、本書を母国語で読むことができる幸運に心より感謝しつつ、磯山氏に見込まれた読者であることを誇りにしながら、「マタイ受難曲」を聴いていく使命を負っているようにも感じるのです。

大阪バッハ合唱団のマタイ受難曲は、まず、リーダーの畑 儀文氏が聴衆に短い説明を加えていました。大阪のおっちゃん?らしく笑いを取りつつ、マタイで一番大事な曲は9音しかないんです。第63曲ですから、注意して聞いてくださいね。あと、私がエバンゲリストで歌いつつ指揮をするので、こっち向いたりあっち向いたりします。という説明のあと、たしかに、驚きの歌い振り方式で曲が始まりました。今どきの古楽っぽいいいテンポで進み、サクサクしたテンポですすみました。63曲ではイエスが息を引き取った後におきた、数々の天変地異やら黄泉がえりやらの奇蹟を、エバンゲリストとして、聴衆に向けて述べた後、後ろを振り返って、マタイ受難曲の中核をなす一説である「本当にこの方は神の子だったのだ」の合唱を指揮しながら、真摯に愛を告白しておられるように見えました。



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