「NEXUS 情報の人類史(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田 裕之 (訳)、河出書房新社)」をオーディブルで聴いた。情報をキーワードとして、それが流れるネットワークの構造の変化として、人類史を描きなおし、AIがそこに与える影響を考察している。
情報ネットワークの構造=政治体制である。独裁体制は情報を一元的に集約して、情報流れる向きのコントロールする。これまでは、情報を集め、分析し、計画を立て、コントロールする作業の労力が大きすぎたが、情報ネットワーク技術とAIの発展で容易に可能になるだろう。計画経済もAIなら完璧だろう。だからAIは危険だ!
情報が流れるネットワークの構造は、人間の意志に影響を与える。SNSのアルゴリズムは「ユーザーがSNSを見る時間を増やせ」という指示に応えて、民族の分断や差別をあおる記事や映像をレコメンドするようになり、ネットワーク構造と、民意をゆがめてきた。今後もAIは、人間の意図を超えた介入を情報ネットワークに与え得る。だからAIは危険だ!
という具合に、AIが情報ネットワークに与える影響に警告を出しまくっている。
また、民主主義で重要なのは、その社会が依拠する法律、聖典および制度に誤りがある可能性を認め、制度を改善するメカニズムを常に機能させ続けること、そのために権力の分割を維持すること。と指摘し、逆に、神の言葉、法律、聖典および制度の無謬性を主張する宗教や国家、政党は必ず、無謬性を維持するために粛清を行うことを指摘している。
本書を読んだ多くの人が感じていると思うのだけど、ハラリの生成AIへの認識は、なんかちょっと行き過ぎで、冷静とは言えず、若干ヒステリックあるいは、感情的ではないだろうか。
まず、生成AIをすごく擬人化しているように感じる。AIが人格を持ち、それがみとめられるようになるのは当然だよね、という前提に立っているのに違和感がある。これはいわゆる物心二元論で、心(精神)は物(体)とは独立に存在し、心=言葉=私、の本体なんだから、LLMの生成AIはむしろ人間なんかより純粋な心(精神)じゃん。とみなしているように見える。
さらに言うと、「初めに言葉=ロゴスがあった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。(ヨハネによる福音書)」という、心が真の言葉=ロゴスを語れるのであれは、それは、神の言葉であり、世界のすべてである。というような言葉を中心に据えた世界観からすると、生成AIの発する言葉が、もし人知を超える完璧で無謬なものであるなら、それは神の言葉となり、生成AIこそが神となるのだ。というものの見方になるのが自然だろう。
(ちなみに日本人は、神は物に宿るというか物=神とみなしているようだし、言葉は神=者が語るものではなく、神=者に語り掛けお願いするための、真偽とは別のものなので、いまいちこの感覚が理解できないのだと思った。)
となると、生成AIはやばい、危険だというのはわからないでもない。それでも、ハラリの反応はやや過剰すぎる。
そこで「ある人が何かを過剰なまでに論難するのはどういう場合か?」という基準に照らし合わせると、
・実は好きだから(中2病ですね)。
・実は自分がそうなりたいから(嫉妬ですね)。
と考えざるを得ず、ちょっと納得してしまった。
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