現代ビジネスの記事「【『一歩前進、二歩後退』書評】それでも批評を読みたい/書きたい人のための絓秀実入門 「不可避性」の思考」(中村拓哉)を読んだ。
書き手の中村拓哉氏は1994年生まれの絓秀実読みで、「六八年の持続としての批評──絓秀実『小説的強度』を読む」とかを書いちゃう人らしい。記事の対象は、この秋に出た絓秀実の評論集『一歩前進、二歩後退』(講談社)である。一読して、うーん、面白いけどそうなんかなと思った。
この本のタイトル『一歩前進、二歩後退』は、収録している評論「金井美恵子のレーニン主義」に由来している。初出は2018年の早稲田文学「金井美恵子なんかこわくない」特集号である。そこで、『一歩前進、二歩後退』の「金井美恵子のレーニン主義」も読んだ。面白いけど本当にそうなんやろかと思った。なにかがすり替わっているような気がした。
「金井美恵子のレーニン主義」では、金井美恵子とレーニンのご縁の傍証の一つとして、金井美恵子が1969年に発表した「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」という評論の存在を挙げている。
「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」は、深沢七郎が1956年に発表した短編小説「楢山節考」に関する評論である。また、「一歩前進二歩後退」とは、1904年のレーニンの著作のタイトルである。
そこで、「金井美恵子詩集」の「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」を読んだ。金井美恵子詩集を吹田市図書館かまだ所蔵してくれていて助かった。だが、「楢山節考」は読んでいないし(映画は緒形拳版を深夜映画番組で観たことがある)、レーニンの「一歩前進二歩後退」も読んでいない。Wikipediaの受け売りである。
金井美恵子の本を図書館で借り出しながら思ったのは、そういえば、高校2年生の頃(1991年ころか?)、父親が買ってきていた週刊文春か週刊朝日で書評記事を読み、高校の近くにある姫路市城郭資料館の図書館で「道化師の恋」を借りて読んだのが金井美恵子との出会いだったな、あれから34年もたったのかというおっさんらしい感慨であった。その後、目白4部作以降の長編と目白雑録は「買って」読んできたけど、それ以前の作品を1968年ころのデビュー時にまで過去にさかのぼって読んではいなかった(金井美恵子全評論はプレゼント用に買ったけど読んでないです。すいません)。
今回初めて、「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」を読んで感じたのは、問題は、金井美恵子がレーニン主義的であるとかないとか、そういうことではなくて、これはほぼレーニンの唯物論なのではないか。ということだった。
レーニンの唯物論については、中澤新一の「はじまりのレーニン」を通じて知るのみであるが(以下はこのブログの記事を参考にしてます)、最も印象的なエピソードは、釣りをしたときに「レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。 ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」という話と、「レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ(はじまりのレーニン)」という笑い=弁証法的唯物論の話である。釣りをしたことがある人なら、あのアタリがあった瞬間の感覚が引き起こす「おお!」という言葉にできない感覚を知っているだろう。何かに心を動かされた人は、とことん冷酷で倫理的ではない言葉や倫理では語りつくせない何かが、どうしようもなく心を満たすことができることを知っているだろう。レーニンはこの唯物論の正当性をまったく疑っておらず、革命とはつまり笑いの社会を構築することだった。
1904年にレーニンが書いた「一歩前進、二歩後退」は、Wikipediaによると「ロシア社会民主労働党の第二回党大会で起こった多数派と少数派の分裂について、多数派の観点から分析し、少数派を批判した。」ものであるらしい。このとき少数派は、党員の数を増やして民主主義革命を起こし、その次に社会主義革命を起こす方針を掲げていた。その背景にはマッハ主義経験論があった。「ある経験の『要素』は、ニューロンを通過するパルスにすぎないのだ。重要なのは、それを経験に組織化する『形式』や『構造』をあきらかにすることであって、外の物質的実在について、うんぬんすることではない。マッハ主義はこのように主張する。(はじまりのレーニン)」つまり、自分たちが言葉で認識する意識の外を知るには、多数の経験を積み上げ、相談しながらコンセンサスを得つつ言葉を組織化すればよい、という、きわめて現代的な主張である。レーニンはこの考え方を退けた。まず、言葉ファーストなので、現在の言葉と価値を統御する既存の政治体制の外に出ることができない。ブルジョアのヒューマニズム的発想である。さらに、この考え方は「ドリンドリン」の要素がなく全く笑えない。
読んでないので、詳しいことはわからないのであるが、「革命を目指す前衛党が結成されて、一歩前進しつつも、その中にマッハ主義経験論に基づく少数派が生まれるのもある意味必然の二歩後退であるなあ。マッハ主義経験論には、肝心の弁証法的唯物論が見えておらずけしからん」という「一歩前進、二歩後退」なのだろう。
「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」にもこれとほとんど同じことが書いてあるように見える。まず金井美恵子はバッハの音楽から話を始める。「何より、バッハは切り裂かれた空間と時間であり、そのために死の予告なのだ(金井美恵子詩集p96-97)」という、なんだかわかりにくい説明ではあるが、死とは「意識の外の世界」のことを意味しており、バッハの音楽とは意識の外から侵入してくるレーニンのいう「ドリンドリン」あるいは「笑い」を同じものだと言っているのである。
「楢山節考」は、貧しい山村の掟に従い70歳になった「おりん」を息子の「辰平」が背負って楢山に連れて行き置いて帰る。という姥捨のいきさつを描いている。この作品はベストセラーとなって2度も映画化されるくらい高い評価を得ていた。一方その評価は「わたしたちは「楢山節考」が、おりんという特異な老婆(自ら進んで死におもむく型(タイプ)の人間は異様であり、近代文学のヒューマニズムの死生観とは相反するのであり、そのために世間では深沢七郎の作品を近代以前の仏教思想とか説話に結び付けて納得するほかになかったのだ(略))の姿と姥捨という残酷な風習を描きながら死について書かれた小説でありそれゆえに根源的な作品であるという読み取り方 同p104」という「おりん」を中心としたものであった。
金井はこれらの評価が、ブルジョアのヒューマニズム的な枠組みの中で行われた評価であることにいら立っている。なによりも、「辰平」を見落としてしまっている点を批判する。「もう一つの根源的な視点を付け加えることによってしか「楢山節考」の深い源泉に到着することはできない。辰平とは作家なのだ」と言い切る。
辰平は村の掟に従い、母親のおりんを背負って楢山に登った。登る前におりんは「きっと雪が降るぞ」と言った。楢山におりんを置き、下山しはじめると雪が降り始めた。そこで辰平は「後ろを振り返ってはいけない。ものを言ってはいけない」という誓いを破り、おりんのもとに戻って「おっかあ。ふんとに雪が降ったなア」と叫ぶように語り掛けると、脱兎のように駆けて山を降りた。
金井はこの「おっかあ。ふんとに雪が降ったなア」という辰平の声に、バッハの音楽と同じものを聴き、戦慄している。辰平は掟通り姥捨てをするのだから、いわゆるヒューマニズムにあふれた男ではない。それであっても、最後、掟を破ってまで母親に言葉を掛けないと気が済まないのである。そしてそのあと山から帰ってくる。金井は辰平が言葉を歌うように発する場所が作家が語り始める場所であり、山から帰ってくるものが、作家であると言っている。しかもそれは、これから作家として生きていこうとする金井自身の矜持あるいは、所信表明にもなっている。
「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」にはレーニンのレの字も出てはこない。しかし、「楢山節考」という奇跡的な作品の出現は、我々にとって一歩前進ではあるが、その読解がブルジョアヒューマニズム的な理解であるのはある意味必然の二歩後退であるなあ。ヒューマニストは、辰平の声という根源的な視点が見えておらずけしからん。という意味で完璧に「一歩前進二歩後退」と同じなのではないだろうか。
絓秀実は「金井美恵子のレーニン主義」で、金井美恵子が「目白雑録」などで繰り広げた、レーニンの域に達した感のある種々の批判を評価し、それを可能にする立ち位置を説明しようとしている。そもそもレーニン主義には2つのジレンマがある。一つは、「労働者は革命意識を持たず、むしろブルジョワ・イデオロギーにあこがれている。小ブルジョワは革命意識を持つが、地に足がついておらず、すぐマッハ主義的日和見主義に流れてしまう。」二つ目は、レーニン的唯物論が、その後継者を自称したスターリンもろとも批判され正当性を失った後、「レーニン的「真理」を宙吊りにしながら、レーニン的批判を継続していくことはできるのか(224頁)」である。絓秀実よれば、このジレンマを乗り越るために金井は「俗悪(と言われる)なものの意味を新たに開示する手続きを、書くことのなかで始めなければならない」という戦略を採ったのであり、これは「「俗悪」でしかない大衆が、「俗悪」なまま、一瞬にして知識人を凌駕して去っていくその時に、一歩前進し二歩後退しながら出発することであり、それが、革命的知識人の唯一可能な身振りなのである。(本書228頁)」と解釈され、その例として小学生の金井が衝撃を受けた、クラスの男の子が歌う「チャンチキおけさの替え歌」を挙げるのである。(しかし、ここの「一歩前進し二歩後退しながら出発する」というすり替えのレトリックは何度読んでもよくわからない)。
「金井美恵子のレーニン主義」は金井美恵子をそのデビュー時の立ち位置までさかのぼって評価しなおしており、我々、男の子にとっては画期的であった。ひょっとしたら最近ノーベル賞候補とも言われる金井美恵子の評価に寄与しているのかもしれない。
しかし、金井美恵子からすると、楢山に上って帰ってくるのが作家であり、私だ。という矜持だけに立脚しているのであり(金井美恵子の小説群をうっとりしながら読んできた読者にとってはまったくもって文句はない)、その党派的な正しさなどはどうでもよいことであり、レーニン主義のジレンマも、「楢山に上る根性がないにも関わらず性急に正しくありたい男の子の都合」にすぎず(フン)、「チャンチキおけさの替え歌」もそこに「辰平の声」を聴いたと言っているだけで、前衛とか知識人とか大衆とかの要素を踏まえているとは思えないのである(フン)。
もちろん、絓秀実がそんなことをわかっていないはずはなく、やはり、「レーニン的「真理」を宙吊りにしながら、レーニン的批判を継続していくこと」が現在の日本の政治状況の中で性急に追及されなくてはならない課題だからこそ、あえて、金井美恵子を通じてその実現可能性を展望したかったのに違いない。
さらに、中村拓哉は書評記事の中で、絓秀実の「一歩前進、二歩後退」というレトリックを「批評はいつも一歩早いか、二歩遅いかである。」とまで変奏して見せ、「ともかく「性急(ルビ:バカ)」で「男の子(ルビ:アホ)」な私は、絓秀実を読むといつも、正気に戻されるような気がする。いや、でもやはりまだまだ「性急さ」が足りないのでは、とも。」と言ってどやって感じで、記事を締めくくる(フン)。
しかし、中村拓哉の書評記事が興味深いのは、1994年生まれの批評家が絓秀実を介して革命とか前衛とかを、「かっこいい」モテ要素キーワードとして利用している点であろう。絓秀実は1974年生まれの私から見ると父親、ベビーブーマーの世代に属する評論家である。1968年ころに一瞬開きかけてあっさり閉じた革命の可能性をいつまでもうじうじと引きずらざるを得ない、つまり1968年の挫折から逃げ切ることができない特徴がある。団塊の世代ジュニアの私たちが大きくなったころ、1990年代には同じくフランスで1968年の意味を考えたデリダやドゥルーズやらの仕事が、浅田彰などを通じて紹介され、(たぶんほどんど誰もきちんと読んでないし、全く意味など分かっていなかったと思うのだが、)バブルな雰囲気の中リゾームとか差延という術語がちりばめらた映画評やらも量産されるようになると、これからはよくわかんないけどポストモダンだよねー、まじめに前衛とか、闘争とか、革命とか、さすがにダサいよね、という雰囲気が漂っていた。そのころは、「現代思想」は知らないとかっこ悪いというか、青年が恰好をつけるための道具として通用した、活動家の現物(民青のアジ演説を中核派が15m位離れたところから双眼鏡で監視している)を大学で見れた、金井美恵子が学園祭の「美恵子の部屋」というイベントに話に来ていた最後の時代であったのではないだろうか。当時は自衛隊の海外派遣の反対「闘争」が活発化しており、「自衛隊派兵絶対阻止舞鶴現地集会!人民の力を結集して断固阻止するぞ!」というビラがたくさん貼られる中、週末にある台風が接近した月曜日に突然「台風上陸絶対阻止地集会!人民の力を結集して断固阻止するぞ!」が張り出され、非常にウケていたものである。このように親の世代を子バカにしつつ、ポストモダンのキーワードをモテツールとして活用していた子供たちのうち、浅田の「逃走論」をまじめによんだスキゾキッズたちは、親たちが逃げ出すことができなかった、革命や逃走その他もろもろから、軽やかに逃げ出し、あたらしいポモな諸関係を構築するはずであったのだが、バブル崩壊後に結局は元革命戦士の親から小遣いをもらって暮らすニートとなっていったのである。その後しばらくポモ後の空白期間というか不景気な時代が続いた後、そろそろ1周していろんなものがリバイバルするのかなと思っていると「人新生の資本論」が出てきて、「脱成長型経済」や「コモン(共有財)」といったこのウン十年を無視したかのようなイノセント(アドレセンスというべきか)ぶりに、軽いめまいがしそうになりながら、あちゃー、と感じていたところに出くわしたのが本書評であった。
上から目線で申し訳ないが、われわれ団塊の世代ジュニアが意識的に無視してきた、「レーニン的「真理」を宙吊りにしながら、レーニン的批判を継続していく」新たな道筋がこれらの論考の中から出てくるのかどうか、楽しみである。もちろん、それには、目白四部作の隠れ主人公とも言えなくもない、「目白に住む小説家のおばさん」がソファーで延々歯磨きしながらぶつぶつ言う皮肉に、びびりつつも聞きすてないことが、大事なんじゃないかな。
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