2018年12月31日月曜日

視線のありか

今年最大の衝撃といえば出張中にYouTubeでみつけた「松田聖子・松たか子、名曲「赤いスイートピー」を歌う アスタリフトCMスペシャルムービー」だった。新幹線の中とかでスマホのパケット上限までくりかえし思わず見てしまうのは松たか子ファン歴20年以上なんだから仕方がないとして、このムービー、「赤いスイトピー」をワンフレーズ歌う松田聖子と、松たか子のバストショットの続けて見ることができる。2人を見比べると、視線のありかがとても気になってしまう。もちろんこのような映像の場合、カメラの視線=聴き手(見てる人)の視線と考えていい。聴き手の目の前で、松田聖子、松たか子が赤いスイトピーを歌っている。という設定だろう。松田聖子と松たか子は、目の前にいる聴き手に向かって歌っている。こちらから見ていること、見られていることを知っていることになる。だから、この映像に映っているのは、そういう状況の中で歌い手はどこを見ながら歌うのか。それによって何を目指しているか、聴き手にどのような印象を与えようとしてるのか、という問題に対する、とても対照的な回答である。
松田聖子は画面の左半分に陣取り、こちらから見て左のほうを向いている。視線も聴き手からみて左後ろの何かを見ている(しかし何を見ているんだろう?)。歌いながら4-5回カメラ(聴き手)に視線を合わせるが、それも時間全体の2-3割しかない。なので、印象として残るのは、視線がこちらから外される瞬間の所作だろう(視線が合っている状態からふっと目を閉じて下を向き、視線を上げた時には、左後ろを見ている)。松田聖子がこのような所作をする理由といえばもちろん、左前から見た自分の表情が一番ぐっとくると思っている、というのが一つ目。追いかけてほしかったら、逃げてみせる。というのが駆け引きの基本だからというのが二つ目。さらに、視線を外す、斜め上を見るのは、私の中に内面があることを見せかける型だから(日本舞踊や、演歌の歌い手のしぐさをみても明らかだよね)というのが3つ目。したがって、松田聖子のしぐさが目指しているのは、私の中に隠されている内面を探しに来て。という勧誘である。聴き手がこの誘いに乗り、歌い手の間で「かくれんぼ」を始めてしまえば、あとは、怒涛の解釈が始まる。歌い手の一つ一つのしぐさや表情や視線を、聴き手は深読み、裏読みし、その内容に一喜一憂する。歌い手に内面があってもなくても聴き手が勝手に誤解してくれる。のだから、もっといってしまうと、歌い手は自分の内面がないことを隠すために、内面があるふりをしている。ともいえるだろう。また、この関係は歌い手にも、聴き手にも楽だ。歌い手は「かくれんぼ」の鬼として基本的には隠れていればいいのだし、聴き手は鬼を探す、あるいは謎を解く探偵役として2人の関係性のイニシアチブをとっている気になれる。そんなことが全部分かったうえで、嬉々として深読みに燃えるのが普通はいい聴き手なんだろう。
一方、松たか子というと画面のほぼ中央にいて、全体の7割くらいはこっちをじっと見ている。ときどき視線を右下に外すことはあるけど、サビの部分では歌いながらずっとカメラ(聴き手)に視線を合わせている。とくに、いったん視線を下に落としたあと、また、聴き手に視線をぐっと合わせるという技を繰り出している。松田聖子のやっていた「かくれんぼ」の要素が全然ないのだ。さらに、聴き手は松たか子に視線を外す、斜め上を見るというような所作をする技術がないわけではもちろんない(なにしろ日本舞踊松本流名取、初代松本幸華でもあるわけだから)ことも知っている。となると、聴き手はこう考えることになる。松たか子は、聴き手と「かくれんぼ」をする気がそもそもない。したがって隠すことによってのみ存在できる内面、のようなものを見せたいわけではない。聴き手であるわれわれは、松たか子の表情や視線の意味を深読み、裏読みすることを禁じられてしまう。じゃあ、松たか子は何を聴き手に見せようとしているのか?それがぜんぜんわからない。すいません。と聴き手は感じてしまうことになる。松たか子の歌う姿を見ていると、聴き手は歌い手の謎を解く探偵役としてイニシアチブをとる、という幻想を持つことを許してはくれず、さらに、そういう駆け引き抜きで「本当の」松たか子がいるんだなと楽観することも、もちろんできはしないんだなっていうことがひしひしとわかる。一言でいうとものすごく居心地が悪いんだけど、目を離すことができない(松たか子が最近演じる役柄の共通性も、ある意味必然とでもいえるのかもしれない)。
このような謎を見せられてしまうと、20年などあっという間に立ってしまうから不思議だ。