2020年1月4日土曜日

新春読書

「The sentence is death」(アンソニー・ホロビッツ、Century)を読んだ。「メインテーマは殺人」の続編。離婚専門の弁護士が自宅で殺され、壁には犯人が残した"182"という謎のメッセージが、という好きな人にはたまらない設定でした。楽しむためにも"A study in scarlet"は事前に読んでおいたほうがいいでしょう。
「長渕剛論」「宮崎駿論」(杉田俊介、NHK出版、毎日新聞出版)を読んだ。著者の書いた「芸術家・椎名林檎は、2020年の東京五輪に何を「賭けて」いるのか」という記事の「椎名林檎はオリンピックで何をしたいのかさっぱりわからないが不穏だ」という話ににまったくその通りだと思ったので興味を持って読んでみた。
どうもこの著者は「作品を通じで自分を語る」タイプの評論家らしい。「長渕剛論」はいまこの時代に男性というジェンダーを引き受けることとは何か?という課題について、自分の思うところを長渕剛の読解を通じて語るというものだ。たしかに、現在の物語における父親の機能の可能性の論考としてなかなか楽しく読めた。さらに、途中から筆者の一人称が「僕」から俺に代わるのだ。「俺」が語る文芸評論としても空前絶後の画期的な到達だろう。杉田氏自身が本論を通じて主体の置き場所を微妙に変えていくのである。それと並行してジェンダーに関する論考が陥るポイント(男らしさに関する議論が人間らしさと直結してしまい、ジェンダーと関係なくなる)にはきっちり引っかかっているのが味わい深い。僕じゃなくて俺っていわないと、男の話だっていうのがわかんなくなっちゃうんだな。たぶん。さらに、また隣人にやさしくあるためにどうあらねばならないか、という問題の解決よりも、問題設定の枠組みそのものをかっこに入れるという、肩の力の抜けたおじさんの知恵と長渕剛的であることとの両立のほうがむつかしそうだなぁという感想をもった。
「宮崎駿論」は杉田氏のアプローチのわかりやすい限界を示していると思われる。杉田氏は、宮崎駿のアニメーション作品にも、自分とシンクロできる領域を探しており、本書では、ある領域ではシンクロできたという報告である前半(魔女の宅急便まで)と、自分がシンクロできてしかるべき領域が宮崎駿の作品で十分語られていないこと(マッチョな父親の居場所)を妙に、愚痴るという後半に分かれている。最初私は、杉田氏が「宮崎駿の雑想ノート」や「飛空艇時代」原作マンガを読んでいないのではないかと訝しんのだが(そんなことはなかったけど)、これらの漫画群をよむとすぐわかるように、宮崎駿のアニメーションは、杉田氏の考えるような物語作品(テーマがあり、主張があり、表現があり、オチがきちんとなるお話)ではまったくもってないような気がする。なんか悪ふざけしている爺ちゃんの面白いお話、くらいなもんだろう。たとえば『ポニョ』の本質となる絵である「ポニョ来る」というイメージボードの作画過程などをみると、宮崎駿がながいながい苦悩というか、有無の苦しみを経て、うーーーんと唸ってじたばたした後、書くべきものを見つけて、絵を書く時のノリノリな(この場合「ワルキューレの騎行を口ずさみながら)おっりゃーっ、ドドドドーっていう感じを、アニメーションを通じてわれわれも体験する、ということがまずは重要なのであって、それ以外のテーマとか、それらしい主張とか、お話としての整合性とか、きちんとオチるオチとかは、全部後付けのような気がする。