2021年6月30日水曜日

セブンイレブンで現金支払いの不足をnanacoで払いたい

 今年の春ごろから、セブンイレブンのレジがよりセルフレジに近いものに、順次交換されている。店員さんが商品の入力を済ませると、あとは、お客が支払い方法を選び、店員を介さず、カードの処理、お金の投入=>おつりの処理、レシートの受け取りまでセルフで行う。大学の近くのセブンでは、「財布の小銭をまとめて投入すると、小銭をなるたけまとめて受け取る両替ができます」と手作りポップでアピールまでしている。最近は、電子決済が増えたので小銭を使う機会が減ったので、手元の小銭を速攻使い切って、財布はなるたけ軽くしたい。そこで、本日の買い物で手元の小銭をジャラジャラと全部、投入し、「あのー不足分をnanacoで払いたいんですけど」と申し出たところ、「あーできませんね。」の一言で撃沈。これができたら小銭を減らしに、コンビニで雑誌を買ったりしに行くようになると思うし、便利だと思うんだけどなぁ。なんでできないんでしょ?


2021年6月25日金曜日

あなたは私が騎士であると正しく信じることはないでしょう

世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか」(ドナルド・ホフマン、青土社)を読んだ。意識の内部で認識する外部(世界)と実際の外部は一致するのか?という大昔に科学哲学の講義で聞いたネタを認知心理学の立場から切り込んでいくというものである。この話のカギは筆者が見つけた、Multimodal user interface (MUI) theoryで、これは、進化的ゲーム理論を使うと、意識の内部で認識する外部と実際の外部とを、一致させないように外部を認識する戦略が進化的に安定となる。というものである(この理論の詳細について本書で詳しい説明がないのは残念だ)。これはすごい面白い。本書はそこから、主に錯視の実際例をてんこ盛り挙げて、ほらほら真実って錯視かもという方向に話が行ってしまう。

この問題について、なぜ、筆者が様相理論の知見を活用しないのかがわからない。MUI理論の主張とは、「決定不能の論理パズル」(レイモンド・スマリヤン、白揚社)で取り扱う騎士と奇人の島における決定的な命題「あなたは私が騎士であると正しく信じることはないでしょう」に対応していると思われる。この命題を信じるとき一定の自意識を持つ推論者は自分が整合であると考えたとき、不整合になってしまう(矛盾する命題を信じることになる)ことが知られている。ここで肝心なのは、自分が整合であることを自分の内部で証明できないだけであって、外部から見ると整合なのは間違いない。つまり、ドナルド・ホフマンの主張「世界はありのままに見ることができない」そのものが、「あなたは私が騎士であると正しく信じることはないでしょう」という命題であり、彼の主張を受け入れると我々は不整合になるしかない。ということになる。

善と悪のパラドックス ーヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史」(リチャード・ランガム, NTT出版)では、ヒトは反射的な攻撃衝動がすごく弱く、一方で計画的な攻撃衝動がすごく強いことに注目し、これらが、ヒトの進化の過程で起きた〈自己家畜化>によるものであることを指摘する。まず、キツネの飼育実験から、反射的な攻撃衝動が弱い個体を選択的に継代すると数十オーダーの世代で人懐っこい集団となり、同時にネオテニー(幼形成熟)の形質が現れることを紹介する。さらに、同一祖先から進化したチンパンジー(反射的な攻撃性大)とボノボ(反射的な攻撃性小)の比較から、ボノボは食料入手に非競争的な環境にいるため、進化の過程で反射的な攻撃衝動が強い個体を排除し、衝動が弱い形質が有利となる選択圧が生じたことから、特にメスの連携により粗暴なオスを排除することで〈自己家畜化〉が進み、その結果現在観察されるネオテニーにつながったと推論する。人類の特に骨の形態にはネオテニーの要素が非常に強く表れているので、ヒトも進化の過程で

・食料が入手などで競争的ではない環境にいて

・反射的な攻撃衝動が強い個体を排除するためのコミュニケーション能力(言語)を発達させ

・その結果自己家畜化した

のではなかろうかというのが筆者の主張である。なるほどーである。もしこれが本当なら、父殺しの神話(粗暴なオスの排除)が人間社会において普遍的な理由が説明できるかもしれない。さらに「言語の起源」(ダニエル・L・エヴェレット、白揚社)において、シンボルおよび言語の起源として推定された「返済することのできない負債」は婚姻関係によって生じるものであったが、婚姻関係とはずばり、集団内の安定化を図る手段である。ヒト進化の過程における婚姻を通じた利害関係の発生が、言語の発生をつよくドライブしたのかもしれない。

さらに、われわれの意識は、言語というか論理(推論)に強く制約されている。われわれは論理的に推論できることしか理解できない。興味深いのは「決定不能の論理パズル」で取り扱われる様相理論のように、「命題pは真か、偽のどちらかである」という2分法はだけは絶対に疑われないという点である。これは「私はこの集団の身内(p)か、身内じゃない排除すべき敵(not p)のどちらかである」という2分法に起因すると考えることできるかもしれない。この命題はシェファー・ストロークという結合子(|)を用いて、p|not pと書ける。これは、pとnot pは両立しないという意味である。さらにこの記号があると、他のすべて論理的結合子が生成できることが知られている。つまり身内か、身内じゃないのどちかかという2分法が、論理そのもの、われわれが認識できる世界の起源となっている可能性がある。

もう一つ、「反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー」(ジェームズ・C・スコット、みすず書房)では、狩猟採集で非常に豊かだったチグリス、ユーフラテス川流域で〈自己家畜化〉してまで農耕技術を開発した理由が、最大の謎とされていた。しかし、狩猟採集で非常に豊かだった環境だったからこそ、上記の条件が一気にそろって、コミュニケーション能力(言語)の発達=>大規模共同作業としての農耕=>社会の発生がおきたんじゃないの?と考えることができるかもしれない。となると、人類を農耕に駆り立てたのは、みんなと協力すると楽しいという喜びか、あるいはみんなと協力しないとと排除される。という恐怖ということになるだろう。


 

2021年6月17日木曜日

Moonflower Murders  ユウガオ殺人事件

 Moonflower Murders (Anthony Horowitz, Random House UK Ltd)を読んだ。前作カササギ殺人事件とは異なり、最初40%くらいまでは、地の分(Susan Ryelandパート)が続き、伏線がせっせと張られていくのであるが、最初はこの部分で力尽きしばらく放置していた。最近、やる気を復活し、最初のから再読、作中作の「Atticus Pund Takes the Case」のAtticus Pundによるwhodunitを楽しく満喫し、その後のSusan Ryelandパートのオチまで一気に読んだ。今回で結構、Susan+クレタの設定を使い切ってしまったようにも思うのだが、本シリーズの次回作は何が起きるのだろうか。Atticus Pund はあと7作?もあるし。。それから、読み終わって(600ページもあるので大変なのだ)やらやれと思ったら、Hawthorneシリーズの10月にでる次回作「A Line to Kill: A Novel」の予告が。今回は南海の孤島ものらしい。楽しみである。