2019年6月10日月曜日

出張のお供

 今回の出張のお供は「観応の擾乱」(中公新書、亀田俊和 著)と「社会学史」 (講談社現代新書、 大澤 真幸著)だった。

 網野善彦の「日本社会の歴史」(岩波新書)を読み直すたびに感じるのは、南北朝期から室町初期におけるすったもんだがわけわからないという点である。「観応の擾乱」では将軍足利尊氏と弟の足利直義、尊氏の執事高師直がどのような権力を握り競合していたのかが解説され、とても面白かった。

背景:尊氏は将軍で恩賞権を確保し、武士の棟梁。直義は裁判権を持ち、政治を担う。高師直は将軍の命令を実行する命令を出す権利を確保。直義と師直は仲が悪い。

第1ラウンド:直義with尊氏 VS 師直
尊氏はどっちつかずだが直義をかくまったりはしている。師直が反直義派を結集してクーデターに成功。
=>直義失脚。

第2ラウンド:尊氏+師直+義詮 VS 直義with南朝
直義の代わりに尊氏の子、義詮が参戦 直義は南朝を手を結び勢力復活
=>師直死ぬ。

第3ラウンド:直義 VS 尊氏+義詮with南朝
直義は天下を取るも、辛気臭い政治は支持を得られず。南朝とも決裂。尊氏が反直義派を糾合して、南朝に降伏するという荒業を繰り出す。
=>直義死ぬ

最後は、尊氏+義詮と南朝が決裂して北朝を再興。

本書を通読しても、足利尊氏の行動が自由すぎるというか、何を考えているのかさっぱりわからないままだった。学研の歴史学習漫画などを読み直してみたいところである。



 生命の分子レベル=>細胞レベル=>組織レベル=>個体レベルという階層構造が生成する(ある特定の機能を持つ単位(ユニット)が複数集まったら、そこになぜか秩序が生じてより高次な機能を持つ新たな階層が生じる)メカニズムの解明は生物学の根本的な課題である。意識とか言語などとも共同戦線を張りつつ、カオスとか、複雑系とか、創発とか、オートポイエーシスとか、システム生物学とか、キャッチ―なフレーズで一世を風靡する流行はいずれも、このメカニズムの解明に向けた試みであるといえる。また、いずれも自己言及系か、ユダヤ教が必ず登場し、なんだかいい線まで行くのであるが、最後は見事に問題を「正しく取り逃がし(by 吉岡洋)」、次の流行に道を譲る律義さも共通している。本書を読んで気づかされたのは、個体レベルの次は当然社会レベルなんだから、社会の起源を問う社会学こそ、なぜか秩序が生じる仕組みについてずっと考察してきた学問なんだという点である。なるほど社会学すごい。
 フーコーは晩年、非対称な権力批判する主体もまた権力を生み出す意識の構造を共有しているという隘路を乗り越えるために、ギリシャにさかのぼり「自己への配慮」という営みにある「パレーシア」という概念に注目したそうだ。これは率直な語り、真実を語ること、真理への勇気を意味するギリシャ語とのこと。これに対して、大澤真幸は批判的である。

『つまり、無垢で、原初的な告白は、近代的な権力への抵抗の拠点を与えるのでしょうか。(略)徹底した告白はだめだが、ほどほどの告白ならよい、といっているに等しいわけです。(略)たとえば今ここに、「極端な優等生」と「たまにはサボりはするがほどほど勉強もして、時々校則には違反するがおおむね順守している生徒」と、二種類いたとしましょう(略)後者に、権力を震撼させる力はあるでしょうか。もちろんそんなことはない。』

ここを読むと、夏目漱石の「虞美人草」を思い出さざるを得ない。恩師のご恩などなどから逃げて、世の中をうまく渡ろうと策を弄する利口な小野さんに、いつもふらふらしている宗近君がする『人は時々は真面目にならなくてはだめだよ』という説教である。

『真面目になれるほど、自信力の出る事はない。真面目になれるほど、腰が据わる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が現存していると云う観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になった気持になる。安心する。』

『真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけで真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君と云う一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ何にもならない。……』

これを読むと、大澤真幸は小野さんサイドにおり、「真面目真面目といっても、口も手も動かしている点では、原理的にかわらないじゃん」と、真面目10%+利口90%と真面目98%+利口2%の違いは脇に置いて、宗近君に難癖をつけているように見えて面白かった。このように、社会学史には、量的な議論が一貫してかけている点が大変興味深い。社会は人間ががかなりの数集まらないと生成しないのは間違いなく、それがどれくらいなのかを見極める量的な議論も読んでみたい。

「社会学史」の最後では、上記の隘路を乗り越える原理として、新約聖書福音書部分に相当する「神の受肉」の可能性が議論させれる。それで、帰りの飛行機ではアーノンクール指揮のバッハ「マタイ受難曲」を通しで久しぶりに聞いてみた。ふらふらと放浪するイエスが「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。」をマジで実践し、神を冒涜した罪で処刑され、周囲の皆は「パレーシア」を感じたという話のようにも思えた。