2024年11月8日金曜日

「センスの哲学」を聴く

 「センスの哲学」(千葉 雅也、文藝春秋)を読んだというか聴いた。というのも、ある先生から教えてもらった、徒歩通勤時間にAmazon朗読サブスクのAudibleを聴く、という技を最近実践しはじめ、その2冊目に選んだのが本書だったからである。本書は、センスがいい(と著者が思っている)芸術の鑑賞技術を伝授する。という攻略本の体裁をとっている。その技術の鍵は、作品の様々なレベルに存在するリズムの、反復と差異、を見出すことであり、その元ネタがドゥルーズの「差異と反復」であることも説明される。

もし、技術の実践テキストであるならば、多数の例題と解読の実践例を通じて、リズムの反復と差異がどのようなものであるかをしつこく説明し、さらに、それを、作品のいわゆる大文字の意味とか意図と対比させることで、作品をより面白く読めるご利益があることを、多くの読者にわかるように書くのが普通だろう。さらに、その過程で体得した概念が、ドゥルーズの「差異と反復」のそれにあたることを指摘することで、哲学にも入門できたりすると素晴らしい(内田樹の「映画の構造分析」がまさしくそうなっている)。

一方、本書が取り上げた作品例は、表紙の抽象絵画を含めて数例程度、解読の実践もないわけではないが、豊富にあるとは言えず、じつのところ、本書を読んでも反復と差異を読みだす技術は身につかない。また、作品をより面白く読めることがわかるような説明もあんまりない。技術を教える気はあんまりなさそうである。一方、筆者が饒舌に語り続けるのは、実践するための「姿勢」というか「言葉」である。もともと、そういうものの見方に気づいている読者は、その「姿勢」や「言葉」を手掛かりにその先に進むことができると思われる。初学者向けではなくで中級者向けの本のようだ。

一方、この本を聴いていると、筆者は、筆者の「語る」姿勢や言葉をかっこよく見せるために「差異と反復」をはじめとする、おしゃれキーワードを参照しているように感じた。とくに本書の最後では、その「姿勢/言葉」の獲得が作者の生い立ちと深くかかわることがネタバレされるので、本書が、著者の生きざまの「言葉」がいかにかっこいいか、という点に関する、自身による解説書であるといえるのかもしれないなと夜道を歩きながら思った。

このように感じたのもの本書を音声として「聴いた」からである。文字を読んでいたら、また別の感想を持ったかもしれない。朗読では、特に、本書のような話し言葉に近い文体は、言葉(ロゴス)が音声(パロール)としてあられもなく現前してしまう。自分の言葉を「聴きたい」音声中心主義にとっては夢のような状況であろう。一方、「センスの哲学」の前に聴いた漱石の「こころ」はくどいほどの「私」という主語の多用と、そもそも「先生の遺書」であるという初期設定のせいで書き言葉、エクリチュールの朗読として聴けた。ただ、漱石の文体特有の切迫感の度合いが読むときに比べて大分減るなあとも感じた。

本書の説く「姿勢/言葉」とそれに基づく鑑賞、批評技術は90年代ころに、大文字の意味に対抗するために流行ったポストモダンのそれ、そのものであるように見える。むしろ現在の課題は「良い大文字の意味」を再び見出すことであるように思えるが、本書がそこにまったく関心を示していないのがおもしろい。