2025年4月12日土曜日

暇と退屈の倫理学

「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)を読んだ。オーディブルで聴いて驚いた。 「暇と退屈」こそが人間の根幹にあるという視点を通じて、農耕の起源から、マルクスの 疎外論、ハイデガーの現存在に、ドゥルーズ、はやりの脳科学まで語りつくしてしまうのだ。 例えば、農耕が始まってから、国家の形成まで4000年くらい かかっていており、その間、いったい人類は何をしていたのかが全然解明されておらず、スコットの「反穀物の人類史」でも、農耕の社会が何度もできては崩壊してきたこととか、グレーバーの「万物の黎明」でも、説明に窮して、その間遊戯的な農業がおこなわれてていたいない。というような指摘がなされて、要するに狩猟採集で定住しなくても豊かに暮らせたのに、農耕で定住するメリットが全くないのに、あえてそれを選ぶ理由がみつからないことに我々は困惑している。「暇と退屈の倫理学」でも、狩猟採集で非定住こそヒトが大好きな日々新しい刺激にあふれた生活であるのに対し、農耕で定住するとヒマになってしまう、が、ヒマの退屈に耐えられない人が暇つぶしにいろいろ試すと、文化ができたり専制国家ができたりするんじゃないか、という指摘はこの問題に面白い視点をもたらすように思う。さらに、マルクスの 疎外論だと退屈=疎外と定式化される。そうすると疎外される以前の「本来のあるべき姿」がどうしても想定される点が限界だとしている。ほぼ同じ議論は、これまたグレーバーが「ブルシットジョブ」でしているのだが、疎外の解消ではなく、疎外を生み出す構造だけを問題とすることで、そもそも論をうまく回避していたりする。國分功一郎がグレーバーについてコメントしているならぜひ読んでみたいと思った。また、ハイデガーのこういう平明な解説はいままで見たことがないので画期的なんじゃないだろうか。全く知らない内容だったのでとてもためになった。
「暇と退屈の倫理学」は、人間が何もすることのないヒマになると、退屈に耐えらなくなって、どうしても何かしたくなる本性を持っている点に立脚している。本書の懸念は退屈して何かしたくなった時に、「これを信じておけばOK」的な安易かつ一元な価値基準を採用して、他人を見下したり、批判したり、戦争したりするような暇つぶし方が幅を利かしている現状にある。そこで、そうならないように生活や趣味のなかに、楽しみを見つける教養こそが大事だ。というのが本書の論旨なのだが、これはもう完全に、「庶民には日々の暮らしや学問に楽しみを見つけさせて、吾輩の支配体制に不満を持たせないようにしようぞ。わはは」、という支配階級のロジックそのものである。人はパンのみに生きるのではなく、、、という話のあとに、薔薇を求めていい(でも銃はダメ)、という國分の超上から目線は、極めて危険な政治的立ち位置であるように思える。革命が不要な社会、ということは、革命後の社会なのであり、そこでの生活の意味を担保する記号的中心に何を持ってくるのか(天皇?)が興味深い。あと、この本を聴きながら、「ゲーテはすべてを言った」(鈴木 結生)を思いだした。この本は、ゲーテ研究科の大学教授が、レストランで見つけたゲーテの言葉「Love does not confuse everything, but mixes.」が本当にゲーテのものなのか?という謎に人生を賭して臨んでいくという話である。学者として感動なしには読めないのではあるが、でも、これを読んでいると、金井美恵子の「快適生活研究」を思い出さざるを得ないのである。このなかに、目白在住で「よゆう通信」という個人新聞を定期的に知人に配っているリタイアした建築家、というのが登場する(もちろん金井美恵子はこういうのを死ぬほど馬鹿にしているのだ)。ゲーテ研究家の大学教授も「よゆう通信」を発行する元建築家も、パンには困らないので、バラの美しさを楽しめる、國分功一郎が理想とする教養豊かな人たちであるように思う。「暇と退屈の倫理学」以降の展開と「よゆう通信」の関係をみてみたいので、國分功一郎の続刊を聴いてみようと思う。