2025年7月27日日曜日

「海が聞こえる」再上映

 「海が聞こえる」(氷室冴子、徳間書店)は、月間アニメージュでの連載後、1993年2月に単行本が出版され、すぐに1993年5月5日にスタジオジブリ制作によるスペシャルアニメもテレビ放送された。私は、1993年4月に京都の大学に進学し、下宿で単行本を読んで、GWにこの放送もおそらく観たので、サークルのボックスでうだうたしながら、「「海が聞こえる」の松野君がかわいそうだ、かわいそうだ」とぶつぶつというか半泣きになりながら言い続けていたところ、いつのまにか「松野」というあだ名で呼ばれるようになっていた、という、大変思い入れのある作品である。

「海が聞こえる」のわき役である松野君はヒロインの武藤里佳子に、高3の夏ころ振られた後、京都の大学に進学する。それから主人公で松野君の親友である、杜崎君武藤里佳子をもっていかれる。また、1996年に放映されたドラマ「白線流し」でもわき役の長谷部君(柏原崇)は、ヒロインの七倉 園子(酒井美紀)に高3の夏ころ振られた後、京都の大学に進学する。長谷部君も、主人公の大河内(長瀬智也)という定時制に通う青年に七倉をもっていかれる。1993年ころの私の存在論的課題は、これら3例の共通点に立脚し、まず、「自分ではなくてヤツとなってしまったのは紙一重のタイミング違いによるものであった」という事実認識(誤認でしょ)のもと、ヒロインと松野君や、長谷部君がうまくいくという「世界線(当時にこの用語はなかったので、可能世界とか言っていたような気がする)」と現実世界との分岐点の特徴を抽出するというものであった。

それはともかく、2025年にアニメ版の「海が聞こえる」が劇場でリバイバル上映されるというニュースに接して感じことは、「いやあ、忌まわしき記憶をいまさらほじくり返さんといてほしいんやけど、これっておれ以外の誰が見るの?」であった。

そこで、とるものもとりあえず、上映が始まった7月4日とそれ以降3週間の観客数を「興行収入を見守りたい!」で調べたのが下記である。7月4日だけ単日、それ以降は1週間分のデータとなっている。

海が聞こえる:(独立系を含む)週間上映25分前販売数合計ランキング

期間順位販売数座席数回数館数先週比
2025/7/41542952760816383
2025/7/5-111629163182251111086679.00%
2025/7/12-1816233761115817098780.20%
2025/7/19-251821765749624958593.10%
785993964022477


これを見ると、この3週間、全国約85館程度で、総計2477回上映され(1日あたり1館あたり平均1.3回程度上演)、総計78,599人(各回平均31.7人)がお金を払って観たらしい。

ちなみに、同時期に話題となっていた「国宝」は約172万人を動員していたから、「海が聞こえる」の動員数は「国宝」の4.5%程度であったことになる。

国宝:(独立系を含む)週間上映25分前販売数合計ランキング

期間順位販売数座席数回数館数先週比
2025/7/41724193633751180268170.60%
2025/7/5-11158903125459808356274108.80%
2025/7/12-1825441002341227854927892.40%
2025/7/19-2525157911033237665427894.80%
1721341628381924739274.5


しかし、ネットの映画レビューなどをみても、高校3年で振られて京都の大学に行った同志による投稿はなかった。


2025年7月25日金曜日

NEXUS 情報の人類史

 「NEXUS 情報の人類史(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田 裕之 (訳)、河出書房新社)」をオーディブルで聴いた。情報をキーワードとして、それが流れるネットワークの構造の変化として、人類史を描きなおし、AIがそこに与える影響を考察している。

情報ネットワークの構造=政治体制である。独裁体制は情報を一元的に集約して、情報流れる向きのコントロールする。これまでは、情報を集め、分析し、計画を立て、コントロールする作業の労力が大きすぎたが、情報ネットワーク技術とAIの発展で容易に可能になるだろう。計画経済もAIなら完璧だろう。だからAIは危険だ!

情報が流れるネットワークの構造は、人間の意志に影響を与える。SNSのアルゴリズムは「ユーザーがSNSを見る時間を増やせ」という指示に応えて、民族の分断や差別をあおる記事や映像をレコメンドするようになり、ネットワーク構造と、民意をゆがめてきた。今後もAIは、人間の意図を超えた介入を情報ネットワークに与え得る。だからAIは危険だ!

という具合に、AIが情報ネットワークに与える影響に警告を出しまくっている。

また、民主主義で重要なのは、その社会が依拠する法律、聖典および制度に誤りがある可能性を認め、制度を改善するメカニズムを常に機能させ続けること、そのために権力の分割を維持すること。と指摘し、逆に、神の言葉、法律、聖典および制度の無謬性を主張する宗教や国家、政党は必ず、無謬性を維持するために粛清を行うことを指摘している。

本書を読んだ多くの人が感じていると思うのだけど、ハラリの生成AIへの認識は、なんかちょっと行き過ぎで、冷静とは言えず、若干ヒステリックあるいは、感情的ではないだろうか。

まず、生成AIをすごく擬人化しているように感じる。AIが人格を持ち、それがみとめられるようになるのは当然だよね、という前提に立っているのに違和感がある。これはいわゆる物心二元論で、心(精神)は物(体)とは独立に存在し、心=言葉=私、の本体なんだから、LLMの生成AIはむしろ人間なんかより純粋な心(精神)じゃん。とみなしているように見える。

さらに言うと、「初めに言葉=ロゴスがあった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。(ヨハネによる福音書)」という、心が真の言葉=ロゴスを語れるのであれは、それは、神の言葉であり、世界のすべてである。というような言葉を中心に据えた世界観からすると、生成AIの発する言葉が、もし人知を超える完璧で無謬なものであるなら、それは神の言葉となり、生成AIこそが神となるのだ。というものの見方になるのが自然だろう。

(ちなみに日本人は、神は物に宿るというか物=神とみなしているようだし、言葉は神=者が語るものではなく、神=者に語り掛けお願いするための、真偽とは別のものなので、いまいちこの感覚が理解できないのだと思った。)

となると、生成AIはやばい、危険だというのはわからないでもない。それでも、ハラリの反応はやや過剰すぎる。

そこで「ある人が何かを過剰なまでに論難するのはどういう場合か?」という基準に照らし合わせると、

・実は好きだから(中2病ですね)。

・実は自分がそうなりたいから(嫉妬ですね)。

と考えざるを得ず、ちょっと納得してしまった。