2025年10月12日日曜日

一歩前進二歩後退

 現代ビジネスの記事「【『一歩前進、二歩後退』書評】それでも批評を読みたい/書きたい人のための絓秀実入門 「不可避性」の思考」中村拓哉)を読んだ。

書き手の中村拓哉氏は1994年生まれの絓秀実読みで、「六八年の持続としての批評──絓秀実『小説的強度』を読む」とかを書いちゃう人らしい。記事の対象は、この秋に出た絓秀実の評論集『一歩前進、二歩後退』(講談社)である。一読して、うーん、面白いけどそうなんかなと思った。

この本のタイトル『一歩前進、二歩後退』は、収録している評論金井美恵子のレーニン主義」に由来している。初出は2018年の早稲田文学「金井美恵子なんかこわくない」特集号である。そこで、『一歩前進、二歩後退』の「金井美恵子のレーニン主義」も読んだ。面白いけど本当にそうなんやろかと思った。なにかがすり替わっているような気がした。

「金井美恵子のレーニン主義」では、金井美恵子とレーニンとにご縁がある傍証の一つとして、金井美恵子が1969年に発表した「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」という評論の存在を挙げている。

「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」は、深沢七郎が1956年に発表した短編小説「楢山節考」に関する評論である。また、「一歩前進二歩後退」とは、1904年のレーニンの著作のタイトルである。

そこで、「金井美恵子詩集」の「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」を読んだ。金井美恵子詩集を吹田市図書館かまだ所蔵してくれていて助かった。だが、「楢山節考」は読んでいないし(映画は緒形拳版を深夜映画番組で観たことがある)、レーニンの一歩前進二歩後退」も読んでいない。Wikipediaの受け売りである。

金井美恵子の本を図書館で借り出しながら思ったのは、そういえば、高校2年生の頃(1991年ころか?)、父親が買ってきていた週刊文春か週刊朝日で書評記事を読み、高校の近くにある姫路市城郭資料館の図書館で道化師の恋」を借りて読んだのが金井美恵子との出会いだったな、あれから34年もたったのかというおじさんの感慨であった。その後、目白4部作以降の長編と目白雑録は「買って」読んできたけど、それ以前の作品を1968年ころのデビュー時にまで過去にさかのぼって読んではいなかった(金井美恵子全評論は読んでないです。すいません)。

今回初めて、「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」を読んで感じたのは、問題は、金井美恵子がレーニン主義的であるとかないとか、そういうことではなくて、これはほぼレーニンの唯物論なのではないか。ということだった。

レーニンの唯物論は、中澤新一の「はじまりのレーニン」を通じて知るのみであるが(以下はこのブログの記事を参考にしてます)、最も印象的なエピソードは、釣りをしたときに「レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。 ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」という話と、「レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ(はじまりのレーニン)」という笑い=弁証法的唯物論の話である。釣りをしたことがある人なら、あのアタリがあった瞬間の感覚が引き起こす「おお!」という言葉にできない感覚を知っているだろう。何かに心を動かされた人は、言葉では語りつくせないとことん冷酷で非倫理的な何かが、どうしようもなく心を満たすことができることを知っているだろう。レーニンの革命とはこの唯物論を実践する社会を構築することであり、その正当性をまったく疑っていなかった。

1904年にレーニンが書いた「一歩前進、二歩後退」は、Wikipediaによると「ロシア社会民主労働党の第二回党大会で起こった多数派と少数派の分裂について、多数派の観点から分析し、少数派を批判した。」ものであるらしい。このとき少数派は、党員の数を増やして民主主義革命を起こし、その次に社会主義革命を起こす方針を掲げていた。その背景にはマッハ主義経験論があった。「ある経験の『要素』は、ニューロンを通過するパルスにすぎないのだ。重要なのは、それを経験に組織化する『形式』や『構造』をあきらかにすることであって、外の物質的実在について、うんぬんすることではない。マッハ主義はこのように主張する。(はじまりのレーニン)」つまり、自分たちが言葉で認識する意識の外を知るには、多数の経験を積み上げ、相談しながらコンセンサスを得つつ言葉を組織化すればよい、という、きわめて現代的な主張である。レーニンはこの考え方を退けた。まず、言葉ファーストなので、現在の言葉と価値を統御する既存の政治体制の外に出ることができない。ブルジョアのヒューマニズム的発想である。さらに、この考え方は「ドリンドリン」の要素がなく全く笑えない。

読んでないので、詳しいことはわからないのであるが、「革命を目指す前衛党が結成されて、一歩前進しつつも、その中にマッハ主義経験論に基づく少数派が生まれるのもある意味必然の二歩後退であるなあ。マッハ主義経験論には、肝心の弁証法的唯物論が見えておらずけしからん」という「一歩前進、二歩後退」なのだろう。

「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」にもこれとほとんど同じことが書いてあるように見える。まず金井美恵子はバッハの音楽から話を始める。「何より、バッハは切り裂かれた空間と時間であり、そのために死の予告なのだ(金井美恵子詩集p96-97)」という、なんだかわかりにくい説明ではあるが、死とは「意識の外の世界」のことを意味しており、バッハの音楽とは意識の外から侵入してくるレーニンのいう「ドリンドリン」あるいは「笑い」を同じものだと言っているのである。

「楢山節考」は、貧しい山村の掟に従い70歳になった「おりん」を息子の「辰平」が背負って楢山に連れて行き置いて帰る。という姥捨のいきさつを描いている。この作品はベストセラーとなって2度も映画化されるくらい高い評価を得ていた。一方その評価は「わたしたちは「楢山節考」が、おりんという特異な老婆(自ら進んで死におもむく型(タイプ)の人間は異様であり、近代文学のヒューマニズムの死生観とは相反するのであり、そのために世間では深沢七郎の作品を近代以前の仏教思想とか説話に結び付けて納得するほかになかったのだ(略))の姿と姥捨という残酷な風習を描きながら死について書かれた小説でありそれゆえに根源的な作品であるという読み取り方 同p104」という「おりん」を中心としたものであった。

金井はこれらの評価が、ブルジョアのヒューマニズム的な枠組みの中で行われた評価であることにいら立っている。なによりも、辰平」を見落としてしまっている点を批判する。「もう一つの根源的な視点を付け加えることによってしか「楢山節考」の深い源泉に到着することはできない。辰平とは作家なのだ」と言い切る。

辰平は村の掟に従い、母親のおりんを背負って楢山に登った。登る前におりんは「きっと雪が降るぞ」と言った。楢山におりんを置き、下山しはじめると雪が降り始めた。そこで辰平は「後ろを振り返ってはいけない。ものを言ってはいけない」という誓いを破り、おりんのもとに戻って「おっかあ。ふんとに雪が降ったなア」と叫ぶように語り掛けると、脱兎のように駆けて山を降りた。

金井はこの「おっかあ。ふんとに雪が降ったなア」という辰平の声に、バッハの音楽と同じものを聴き、戦慄している。辰平は掟通り姥捨てをするのだから、いわゆるヒューマニズムにあふれた男ではない。それであっても、最後、掟を破ってまで母親に言葉を掛けないと気が済まないのである。そしてそのあと山から帰ってくる。金井は辰平が言葉を歌うように発する場所が作家が語り始める場所であり、山から帰ってくるものが、作家であると言っている。しかもそれは、これから作家として生きていこうとする金井自身の矜持あるいは、所信表明にもなっている。

「深沢七郎に向って一歩前進二歩後退」にはレーニンのレの字も出てはこない。しかし、「楢山節考」という奇跡的な作品の出現は、我々にとって一歩前進ではあるが、その読解がブルジョアヒューマニズム的な理解であるのはある意味必然の二歩後退であるなあ。ヒューマニストは辰平の声という根源的な視点が見えておらずけしからん。という意味で完璧に「一歩前進二歩後退」と同じなのではないだろうか。

絓秀実は「金井美恵子のレーニン主義」で、金井美恵子が「目白雑録」などで繰り広げた、レーニンの域に達した感のある種々の批評というか批判を評価し、それが立脚する立ち位置の困難さを説明しようとしている。そもそもレーニン主義には2つのジレンマがある。一つは、「労働者は革命意識を持たず、むしろブルジョワ・イデオロギーにあこがれている。小ブルジョワは革命意識を持つが、地に足がついておらず、すぐマッハ主義的日和見主義に流れてしまう。」二つ目は、レーニン的唯物論が、その後継者を自称したスターリンもろとも批判され正当性を失った後、「レーニン的「真理」を宙吊りにしながら、レーニン的批判を継続していくことはできるのか(224頁)」である。絓秀実によれば、このジレンマを乗り越るために金井は俗悪(と言われる)なものの意味を新たに開示する手続きを、書くことのなかで始めなければならない」という戦略を採ったのであり、これは「俗悪」でしかない大衆が、「俗悪」なまま、一瞬にして知識人を凌駕して去っていくその時に、一歩前進し二歩後退しながら出発することであり、それが、革命的知識人の唯一可能な身振りなのである。(本書228頁)」と解釈され、その例として小学生の金井が衝撃を受けた、クラスの男の子が歌う「チャンチキおけさの替え歌」を挙げるのである。(しかし、ここの「一歩前進し二歩後退しながら出発する」というすり替えのレトリックは何度読んでもよくわからない)。

「金井美恵子のレーニン主義」は金井美恵子をそのデビュー時の立ち位置までさかのぼって評価しなおしており、我々、男の子にとっては画期的であった。ひょっとしたら最近ノーベル賞候補とも言われる金井美恵子の評価に寄与しているのかもしれない。

しかし、金井美恵子からすると、楢山に上って帰ってくるのが作家であり、私だ。という矜持だけに立脚しているのであり(金井美恵子の小説群をうっとりしながら読んできた読者にとってはまったくもって異論はない)、その党派的な正しさなどはどうでもよいことであり、レーニン主義のジレンマも、「楢山に上る根性がないにも関わらず性急に正しくありたい男の子の都合」にすぎず(フン)「チャンチキおけさの替え歌」もそこに辰平の声」を聴いたと言っているだけで、前衛とか知識人とか大衆とかの要素を踏まえているとは思えないのである(フン)。

もちろん、絓秀実がそんなことをわかっていないはずはなく、やはり、「レーニン的「真理」を宙吊りにしながら、レーニン的批判を継続していくこと」が現在の日本の政治状況の中で性急に追及されなくてはならない課題だからこそ、あえて、金井美恵子を通じてその実現可能性を展望したかったのに違いない。

さらに、中村拓哉は書評記事の中で、絓秀実の「一歩前進、二歩後退」というレトリックを「批評はいつも一歩早いか、二歩遅いかである。」とまで変奏して見せ、「ともかく「性急(ルビ:バカ)」で「男の子(ルビ:アホ)」な私は、絓秀実を読むといつも、正気に戻されるような気がする。いや、でもやはりまだまだ「性急さ」が足りないのでは、とも。」と言ってどやって感じで、記事を締めくくる(フン)

しかし、中村拓哉の書評記事が興味深いのは、1994年生まれの批評家が絓秀実を介して革命とか前衛とかを、「かっこいい」モテ要素キーワードとして利用している点であろう。絓秀実は1974年生まれの私から見ると父親、ベビーブーマーの世代に属する評論家である。1968年ころに一瞬開きかけてあっさり閉じた革命の可能性をいつまでもうじうじと引きずらざるを得ない、つまり1968年の挫折から逃げ切ることができない特徴がある。団塊の世代ジュニアの私たちが大きくなったころ、1990年代には同じくフランスで1968年の意味を考えたデリダやドゥルーズやらの仕事が、浅田彰などを通じて紹介され、(たぶんほどんど誰もきちんと読んでないし、全く意味など分かっていなかったと思うのだが、)バブルな雰囲気の中リゾームとか差延という術語がちりばめらた映画評やらも量産されるようになると、これからはよくわかんないけどポストモダンだよねー、まじめに前衛とか、闘争とか、革命とか、さすがにダサいよね、という雰囲気が漂っていた。そのころは、「現代思想」が知らないとかっこ悪いというか、青年が恰好をつけるための道具として通用した、活動家の現物(民青のアジ演説を中核派が15m位離れたところから双眼鏡で監視している)を大学で見れた、金井美恵子が学園祭の「美恵子の部屋」というイベントに話に来ていた最後の時代であったのではないだろうか。当時は自衛隊の海外派遣の反対「闘争」が活発化しており、「自衛隊派兵絶対阻止舞鶴現地集会!人民の力を結集して断固阻止するぞ!」というビラがたくさん貼られる中、週末にある台風が接近した月曜日に突然「台風上陸絶対阻止地集会!人民の力を結集して断固阻止するぞ!」が張り出され、非常にウケていたものである。このように親の世代を子バカにしつつ、ポストモダンのキーワードをモテツールとして活用していた子供たちのうち、浅田の「逃走論」をまじめによんだスキゾキッズたちは、親たちが逃げ出すことができなかった、革命や逃走その他もろもろから、軽やかに逃げ出し、あたらしいポモな諸関係を構築するはずであったのだが、バブル崩壊後に結局は元革命戦士の親から小遣いをもらって暮らすニートとなっていったのである。その後しばらくポモ後の空白期間というか不景気な時代が続いた後、そろそろ1周していろんなものがリバイバルするのかなと思っていると「人新生の資本論」が出てきて、「脱成長型経済」や「コモン(共有財)」といったこのウン十年を無視したかのようなイノセント(アドレセンスというべきか)ぶりに、軽いめまいがしそうになりながら、あちゃー、と感じていたところに出くわしたのが本書評であった。

上から目線で申し訳ないが、われわれ団塊の世代ジュニアが意識的に無視してきた、「レーニン的「真理」を宙吊りにしながら、レーニン的批判を継続していく」新たな道筋がこれらの論考の中から出てくるのかどうか、楽しみである。もちろん、それには、目白四部作の隠れ主人公とも言えなくもない、「目白に住む小説家のおばさん」がソファーで延々歯磨きしながらぶつぶつ言う皮肉に、びびりつつも聞きすてないことが、大事なんじゃないかな。




2025年7月27日日曜日

「海が聞こえる」再上映

 「海が聞こえる」(氷室冴子、徳間書店)は、月間アニメージュでの連載後、1993年2月に単行本が出版され、すぐに1993年5月5日にスタジオジブリ制作によるスペシャルアニメもテレビ放送された。私は、1993年4月に京都の大学に進学し、下宿で単行本を読んで、GWにこの放送もおそらく観たので、サークルのボックスでうだうたしながら、「「海が聞こえる」の松野君がかわいそうだ、かわいそうだ」とぶつぶつというか半泣きになりながら言い続けていたところ、いつのまにか「松野」というあだ名で呼ばれるようになっていた、という、大変思い入れのある作品である。

「海が聞こえる」のわき役である松野君はヒロインの武藤里佳子に、高3の夏ころ振られた後、京都の大学に進学する。それから主人公で松野君の親友である、杜崎君武藤里佳子をもっていかれる。また、1996年に放映されたドラマ「白線流し」でもわき役の長谷部君(柏原崇)は、ヒロインの七倉 園子(酒井美紀)に高3の夏ころ振られた後、京都の大学に進学する。長谷部君も、主人公の大河内(長瀬智也)という定時制に通う青年に七倉をもっていかれる。1993年ころの私の存在論的課題は、これら3例の共通点に立脚し、まず、「自分ではなくてヤツとなってしまったのは紙一重のタイミング違いによるものであった」という事実認識(誤認でしょ)のもと、ヒロインと松野君や、長谷部君がうまくいくという「世界線(当時にこの用語はなかったので、可能世界とか言っていたような気がする)」と現実世界との分岐点の特徴を抽出するというものであった。

それはともかく、2025年にアニメ版の「海が聞こえる」が劇場でリバイバル上映されるというニュースに接して感じことは、「いやあ、忌まわしき記憶をいまさらほじくり返さんといてほしいんやけど、これっておれ以外の誰が見るの?」であった。

そこで、とるものもとりあえず、上映が始まった7月4日とそれ以降3週間の観客数を「興行収入を見守りたい!」で調べたのが下記である。7月4日だけ単日、それ以降は1週間分のデータとなっている。

海が聞こえる:(独立系を含む)週間上映25分前販売数合計ランキング

期間順位販売数座席数回数館数先週比
2025/7/41542952760816383
2025/7/5-111629163182251111086679.00%
2025/7/12-1816233761115817098780.20%
2025/7/19-251821765749624958593.10%
785993964022477


これを見ると、この3週間、全国約85館程度で、総計2477回上映され(1日あたり1館あたり平均1.3回程度上演)、総計78,599人(各回平均31.7人)がお金を払って観たらしい。

ちなみに、同時期に話題となっていた「国宝」は約172万人を動員していたから、「海が聞こえる」の動員数は「国宝」の4.5%程度であったことになる。

国宝:(独立系を含む)週間上映25分前販売数合計ランキング

期間順位販売数座席数回数館数先週比
2025/7/41724193633751180268170.60%
2025/7/5-11158903125459808356274108.80%
2025/7/12-1825441002341227854927892.40%
2025/7/19-2525157911033237665427894.80%
1721341628381924739274.5


しかし、ネットの映画レビューなどをみても、高校3年で振られて京都の大学に行った同志による投稿はなかった。


2025年7月25日金曜日

NEXUS 情報の人類史

 「NEXUS 情報の人類史(ユヴァル・ノア・ハラリ、柴田 裕之 (訳)、河出書房新社)」をオーディブルで聴いた。情報をキーワードとして、それが流れるネットワークの構造の変化として、人類史を描きなおし、AIがそこに与える影響を考察している。

情報ネットワークの構造=政治体制である。独裁体制は情報を一元的に集約して、情報流れる向きのコントロールする。これまでは、情報を集め、分析し、計画を立て、コントロールする作業の労力が大きすぎたが、情報ネットワーク技術とAIの発展で容易に可能になるだろう。計画経済もAIなら完璧だろう。だからAIは危険だ!

情報が流れるネットワークの構造は、人間の意志に影響を与える。SNSのアルゴリズムは「ユーザーがSNSを見る時間を増やせ」という指示に応えて、民族の分断や差別をあおる記事や映像をレコメンドするようになり、ネットワーク構造と、民意をゆがめてきた。今後もAIは、人間の意図を超えた介入を情報ネットワークに与え得る。だからAIは危険だ!

という具合に、AIが情報ネットワークに与える影響に警告を出しまくっている。

また、民主主義で重要なのは、その社会が依拠する法律、聖典および制度に誤りがある可能性を認め、制度を改善するメカニズムを常に機能させ続けること、そのために権力の分割を維持すること。と指摘し、逆に、神の言葉、法律、聖典および制度の無謬性を主張する宗教や国家、政党は必ず、無謬性を維持するために粛清を行うことを指摘している。

本書を読んだ多くの人が感じていると思うのだけど、ハラリの生成AIへの認識は、なんかちょっと行き過ぎで、冷静とは言えず、若干ヒステリックあるいは、感情的ではないだろうか。

まず、生成AIをすごく擬人化しているように感じる。AIが人格を持ち、それがみとめられるようになるのは当然だよね、という前提に立っているのに違和感がある。これはいわゆる物心二元論で、心(精神)は物(体)とは独立に存在し、心=言葉=私、の本体なんだから、LLMの生成AIはむしろ人間なんかより純粋な心(精神)じゃん。とみなしているように見える。

さらに言うと、「初めに言葉=ロゴスがあった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。(ヨハネによる福音書)」という、心が真の言葉=ロゴスを語れるのであれは、それは、神の言葉であり、世界のすべてである。というような言葉を中心に据えた世界観からすると、生成AIの発する言葉が、もし人知を超える完璧で無謬なものであるなら、それは神の言葉となり、生成AIこそが神となるのだ。というものの見方になるのが自然だろう。

(ちなみに日本人は、神は物に宿るというか物=神とみなしているようだし、言葉は神=者が語るものではなく、神=者に語り掛けお願いするための、真偽とは別のものなので、いまいちこの感覚が理解できないのだと思った。)

となると、生成AIはやばい、危険だというのはわからないでもない。それでも、ハラリの反応はやや過剰すぎる。

そこで「ある人が何かを過剰なまでに論難するのはどういう場合か?」という基準に照らし合わせると、

・実は好きだから(中2病ですね)。

・実は自分がそうなりたいから(嫉妬ですね)。

と考えざるを得ず、ちょっと納得してしまった。



2025年5月10日土曜日

行動経済学の逆襲

 「行動経済学の逆襲」(リチャード・セイラー, 遠藤 真美 (訳))をオーディブルで聴いた。

本書の主張は、経済学が前提に置く「合理的経済人(エコン)」モデルでは、説明がつかない現象がたくさんあること、その現象は、損失回避 (人々は損失を回避しようとする意思決定をする傾向が強い心理学的な現象)などの人間の心理現象をモデルに導入することで一部説明できる、さらに、作成したモデルを予測モデルとして活用すると、人々の行動を特定の方向にそっと誘導する手法、ナッジ、を構築できる。というものである。それを行動経済学を開拓した第一人者である著者の一代記として紹介しており、とても面白かった。

が、本書がその後巻き起こすであろう影響という観点では、すごくありがちに兆候的な本だとも思った。

こういう本、ある分野を開拓した第一人者が、その経緯を回想しながら紹介する、の例として思いつくのは、例えば、グールドの「ワンダフル・ライフ」であろう。「ワンダフル・ライフ」でも「行動経済学の逆襲」でも、研究過程で出会った、多くの同僚や、仲間、論敵などが生き生きと描かれる。本を読んでいると、著者がグループのリーダー格で、チームはみんな仲良し。というイメージをなんとなく持ってしまうのだが、「ワンダフル・ライフ」の訳者あとがきによると、グールドのもっとも重要な共同研究者が、「ワンダフル・ライフ」をボロカスに言っている。という話が紹介されている。あくまでも、仲良しイメージは、著者の一面的な感想にすぎず、さらに、グールドが周囲からなんとなく浮いているような、研究コミュニティーあるあるな風景が垣間見えるのが、大変興味深かった。本書でも、リチャード・セイラーは自分のリア充ぶりをわりとチラ見せしてるし、本書を出してすぐ、2017年にはノーベル経済学賞を受賞してしまうので、さらなるやっかみはさけられないだろう。なので、ほんとのところどうなんだろか?と野次馬根性がうずいてしまった。オーディブルには「訳者あとがき」はないのだけど、書籍版なら何か手掛かりがあるのかしらん。

また、本書はかっこいい。旧来の合理的経済人モデルはすでに過去のものであり、行動経済学が提案する、より包括的なモデルを使うことで経済学はより現実を説明することが可能となり、その成果を活用したナッジを開発することで社会をよりよくできる!という展望が示される。示された展望はとっても魅力的で、へぇー度も非常に高く、「行動経済学」という学問の可能性を社会に紹介するという役割は十全に果たされているだろう。

すると、ありがちな反響がおきる。特に「より包括的なモデル」にいち早くキャッチアップした、アーリーアダプターが続々と登場して、「より包括的なモデル」がうまくいった例が続々と提出されるようになる。アーリーアダプターには2種類ある。1つめは、ある未解明の現象の一面が「より包括的なモデル」で説明できた。という研究者だち。こういう人たちは、自分の見ている現象の不可解さをよく理解していて、その解明につながる「何か」を常に探しているし、かといって、「より包括的なモデル」ですべてが説明できたわけでもないことも知っているのであんまし深入りはせず、すぐ自分の研究領域に帰っていく。ただ、そういう報告が相次ぐと、「より包括的なモデル」というのがかなり普遍的のように見えるようになり、社会的な期待が高まるブームっぽい状況になる。すると、その期待に応えるのは私ですという、ファッショナブルで革新者っぽいイメージを纏った次の一群が登場し、「より包括的なモデル」のややせこめの適用例が山積みとなりはじめる。しかし、しばらくすると、実験がぜんぜん再現しないとか、「より包括的なモデル」の例外も多く見つかるようになり、「(かなり限定された条件での)より包括的なモデル」であることがわかりはじめ、最終的には、「この包括的なモデルが適用できる条件」などが解明される検証期を経て、研究ツールとしての評価が確立する。というあまりファッショナブルではない状況となる。そのころには、みこしをかついだみなさんは、新しい「より包括的なモデル」に移行していて特に反省はない。という光景は、「利己的な遺伝子」「散逸構造」「システム」「カオス」「スケールフリー」などを経たわれわれには見慣れたありがちなものであろう。

実際、行動経済学でも、2020年ころに「行動経済学は死んだ」という記事が出始め、再現しない、とか、例外がみつかるという状況になったらしい。さらに、つい最近には、日本でも、「行動経済学の死: 再現性危機と経済学のゆくえ」という本が出たりして、検証期に入っているようだ。

ナッジの話を聞いて2つ感想を持った。ひとつは、これは流行の話ではないかということである。音楽や、消費行動、ライフスタイルに流行があるのはいうまでもない。しばらく流行したあと、あっというまに忘れ去られるもののあれば、選択肢の一つとして定着していくものもあるが、いずれにせよ、流行は次第に飽きられて長続きはしない。学問分野にも流行りすたりがあるのも当然だろう。さらに、流行とは、人為的な働きかけの結果、人々が行動を変容させて起きたものであり、ナッジが目指すものそのものではないだろうか。そうすると、あるナッジに効果があったのは、「バズった(<=これももう古い)、流行った」のであり、そのうち飽きられて効果を失ってしまうこともあるような気がする。行動経済学は「ヒューマン」の選好を公理的静的に扱おうとしているように見えるが、じつは選好そのものが、かなり飽きっぽいものなのかもしれない。

もう一つは、ランダム化比較試験(RCT)の使い方である。介入実験では、サンプルを介入した区と、介入しなかった区の二つに分け、結果の比較から、ある介入に効果があったかどうかを統計的手法をもちいて判定する。RCTは、意図した介入以外の要因が結果に影響しないようにするための、実験デザイン方法の一つである。「行動経済学の逆襲」でも、RCTは熱烈推奨されている。RCTを導入する目的は、「ある介入には、こんなに顕著な効果があった。RCTで得られた結果であるから、この効果が他の要因に起因するという説明はできない」という、バイアスの排除にある。一方、RCTを導入すると、バイアスに隠れがちなすごく小さな効果も検出できてしまう。なので、RCTが、「ある介入には、小さいけれど介入に起因する統計的に優位な効果があった」という小さい効果を検出するために使われ、さらにいつのまにか「小さいけれど」の部分が無意識的になくなり、「ある介入には効果があった」という話になってしまいがちである。「行動経済学の逆襲」でも「効果は小さいが効果は確かにあった」という説明がちらほらあった。こういう結果はもちろんあまり再現しない。

ちなみに、こういう議論は生物研究、特に創薬の分野ではおなじみのものであり、ある剤が効いたり、効かなかったりする異なるRCTの結果に対しては、「コンテキスト依存的である」というクールな評価をする。あまり効かない剤でもなんとか臨床に持っていくために(投資を回収するために)、ある剤が効くコンテキストの人をゲノムデータとかを用いて選び出すことを「個別化医療」とか「テイラーメイド医療」とか呼ぶ。この例に倣うと、そのうち、ナッジを活用した政策パッケージにも「個別化ナッジ」とか「テイラーメイドナッジ」とかが出てくるんじゃないだろうか。でもこれって、いわゆるマイクロ・マーケティングそのものであり、個人のコンテキストを推定するための、行動履歴データが必要となる。そのうち税務署が、税金滞納のテーラーメイド督促状の作成を、データを持つグーグルやアマゾンに依頼する時代が来るのだろうか。。









2025年5月6日火曜日

マタイ受難曲

 「マタイ受難曲」(磯山雅、ちくま学芸文庫)を読みました。それから4月12日には大阪バッハ合唱団 第29回演奏会のマタイ受難曲を、西宮北口は芸術文化センターKOBELCO 大ホールまで聴きに行きました。さらに、レオンハルト版のマタイ受難曲を休みの日に通しで聴いてみました。

「マタイ受難曲」を初めて聞いたのは今からたぶん27年くらい前で、1998年に出たブリュッヘン版のCDを買って、ながらく聴いてきました。ドイツ語の歌詞を聞き取れるはずもなく、受難の意味もよくわからないまま、ただ、何か抜き差しならない切迫した感情とその中なら立ち上がる美しいコラールに惹かれてきたのです。また、1999年4月1日にシンフォニーホールで行われたバッハコレギウムジャパンのコンサートを聴きに行き、一番安い2階席の端で通しで聴く機会がありました。そのとき、イエスの遺体を引き取った後に流れる第65曲バスのアリア 'Mache dich, mein Herze, rein' のとき、右側のパートのバイオリンのお姉さん(この曲では出番なし)が、ノリノリで音楽に聞き入っているを見て、この曲の素晴らしさに気づき、以来、何度も聴き返してきました。

「マタイ受難曲」の歌詞の意味がわからず、当時岩波から出ていた、佐藤研翻訳、注釈の「新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書」を読んでみたりしたのだけど、信心のない私には歯が立つはずもなかったのでありました。

最近になって本屋で磯山氏の「マタイ受難曲」を見つけて、これこそが私の探していた本であることに気づきました。本書では、マタイ受難曲の歌詞がなぜ、こうなったのかを説明してくれます。まず、マタイによる福音書への、ルターによるプロテスタントからの解釈があり、それをもとに受難を論じたハインリッヒ・ミュラーの論考があり、そこで展開された様々な概念がピカンダーによる歌詞となったそうです。バッハの蔵書には、ミュラーの論考があり、バッハの作曲も強く影響を受けていることが確認できるそうです。例えば、序曲でイエスが子羊の花婿に例えられてるのも、何でやろ?と思っていましたが、長い聖書の読解の中で作られた比喩であると教えてもらえます。次の、「ベタニアの香油」として知られるエピソードは、ベタニアで食事中のイエスの体に、一人の女が超高価な香油を注ぐ。周囲の弟子たちは、「もったいない、それを売ったお金で多くの人をすくえるのに」、といって怒るが、イエスはこの福音が世界に延べ伝えられるときには、この女のしたことも語え伝えられるだろう」といって擁護する、というこれまたなんで?という話です。これも、当時の習俗や聖書解釈を踏まえて「イエスへのあふれるばかりの尊敬、感謝、そして愛情に促されてのものであったに違いない。」と、まるで我々読者の手を引くかのように、この受難の世界へと連れて行ってくれるのです。

読み進めながら、第65曲バスのアリアを磯山氏がどのように解説するのかは大変楽しみでした。 'Mache dich, mein Herze, rein, ' は、私の心よ、おのれを清めよ。と訳せます。これは、ミュラーの「イエスの形見をもらい受けた心は、自らを清め、イエスを内面に葬り去ろうとする。」という発想に基づくものであること、このアリアが清浄の気に満ち、冒頭の合唱曲からは、「なんと異なった世界となったことだろうか」との説明の後、2行目、「Ich will Jesum selbst begraden」は直訳の「私はイエスを自ら葬ろう」ではなく「自らを墓として」と解さねばならないとしたあと、本書の中でここだけ、磯山氏が学生時代の演習時に、師匠の杉山好教授から聞いた、「この歌詞のselbstがmein Herzeから14番目の音であることに気づいてから、この部分を「おのれの心を墓となして」としか訳せなくなったとおっしゃった」と紹介しています。BACHをアルファベット順に足していった14はバッハにとって特別な数なので、ここでの「おのれ」とはバッハ自身のことであるという指摘です。これを受けて磯山氏も、「この音楽がバッハ自身の決意であり、彼の信仰告白の表現であると、感じないわけにはいかなくなってしまった」とのべ、この曲の素晴らしさの源泉がどこにあるのかを教えてくれるのでした。

本書が素晴らしさは、磯山氏の読者への姿勢と語り口にあります。p148の「しかし《マタイ受難曲》においてバッハはさらにその先を行く、、、われわれはそれによって、」という語り口とは、読者であるわれわれを信頼してマタイの世界に引き込みつつ、その上で確信をもって語りだそうとするものにしか、書くことのできない文章であると思いました。作品と読者への愛に包まれた文章であり読んできてものすごく元気が出るのです。また、本書を一読して思ったのは、「マタイ受難曲」という音楽の素晴らしさ(あるいは作品へのおのれの愛)を、より多くの読者に説明するべく、これだけの知見と研究成果を語りに語れることは、間違いなく学者冥利に尽きるだろうということ、さらに、読者であるわれわれも、本書を母国語で読むことができる幸運に心より感謝しつつ、磯山氏に見込まれた読者であることを誇りにしながら、「マタイ受難曲」を聴いていく使命を負っているようにも感じるのです。

大阪バッハ合唱団のマタイ受難曲は、まず、リーダーの畑 儀文氏が聴衆に短い説明を加えていました。大阪のおっちゃん?らしく笑いを取りつつ、マタイで一番大事な曲は9音しかないんです。第63曲ですから、注意して聞いてくださいね。あと、私がエバンゲリストで歌いつつ指揮をするので、こっち向いたりあっち向いたりします。という説明のあと、たしかに、驚きの歌い振り方式で曲が始まりました。今どきの古楽っぽいいいテンポで進み、サクサクしたテンポですすみました。63曲ではイエスが息を引き取った後におきた、数々の天変地異やら黄泉がえりやらの奇蹟を、エバンゲリストとして、聴衆に向けて述べた後、後ろを振り返って、マタイ受難曲の中核をなす一説である「本当にこの方は神の子だったのだ」の合唱を指揮しながら、真摯に愛を告白しておられるように見えました。



2025年4月25日金曜日

謎ときエドガー・アラン・ポー―知られざる未解決殺人事件―

「 謎ときエドガー・アラン・ポー―知られざる未解決殺人事件―」(竹内康浩著)を読んだ。最近はオーディブルで聴いてばかりいたけど、千里中央の田村書店で見つけて即買いして一気に読んだ。エドガー・アラン・ポーの短編「犯人はお前だ」(これまで読んだことなかったであります)から、知られざる未解決殺人事件があることを読み出し、「物語の語り手」がその犯人であると推理している。「語り手」の語りの裏を読んでいく謎解きは鮮やかだった。また、本書の後半では、「犯人はお前だ」の構造、オリジナルとコピー、を起点として、ポーの作品論まで展開していて力量は文学者の底力を見た気がした。。

がしかし、本書を読んだ後も、いくつかもやもやした疑問が残った。

一つ目は、探偵役であり、さらに本書で竹内氏に犯人と名指しされた「物係の語り手」って誰?という疑問である。この語り手は、シャトルワージー家の内情に異様に詳しく(イロイロ立ち聞きしすぎ)、かつ、シャトルワージー氏の捜索に参加しなくてもそれほど怪しまれず、グッドフェロー氏に殺意を抱く動機があり、さらに、グッドフェロー氏の企画したパーティーに呼ばれるステイタスがあり、後述のように、「私の使用人」を持っていてさらに、周囲から全く怪しまれてなかった人物である。角川文庫『ポー傑作選2 怪奇ミステリー編 モルグ街の殺人』で「犯人はお前だ」の新訳を行った河合祥一郎氏の訳文を読む限り、河合氏は「物語の語り手」を殺されたシャトルワージー氏の執事と推定したらしい。確かに執事だと、シャトルワージー邸内での様々な目撃証言もつじつまがあう。また、シャトルワージー氏が、シャトーマルゴー1ケースをグッドフェロー氏にプレゼントするから発注してくれ、と依頼しても、執事ならもみ消すことは可能であろう。唯一、ちょっとヘンなのは、話の最終局面で「私の使用人に箱を運び込むよう指示した I gave instructions to my servant to wheel the box」と言っている点である。執事は、屋敷にいる使用人を「私の使用人」と呼ぶ事はあるのだろうか?

次の疑問は「犯人はお前だ」の中で、語り手が物語の叙述を離れて自分の意見を展開し出す点である。わざわざ持ち出すということは、そこにヒントが隠されているのは間違いないだろう。最も紙幅を割いている、すなわちもっとも重要そうな持論が、「過去の小説の中で、ラテン語のcui bono? を、何のために?と訳してきたのは間違いであり、だれが得をするのか?と訳すのが正しい。」と述べている点である。わざわざここまで言うからには、隠された未解決殺人事件の犯人も何かの利益を得ていたはずである。結果的に、甥のペニフェザー氏は、財産を相続するという利益を得たが殺人犯ではなさそうである。では、殺人犯の執事が得た利益って何なのかがはっきりしない。

さらに、「犯人はお前だ」には、誰かを犯人に名指しした人は、次に誰かから犯人と名指しされる。という構造があることは明らかである。グッドフェロー氏がペニフェザー氏を犯人と名指しし、次は、「語り手」がグッドフェロー氏を犯人と名指しし、さらに、本書の著者の竹内氏(「犯人はお前だ」の読者でもある)が「語り手」を犯人と名指しした。となると、ペニフェザー氏はこれ以前に誰かを犯人と名指ししたのかもしれない。

ポーは「犯人がお前だ」の翌年に「盗まれた手紙」という作品を書いている。「盗まれた手紙」は「犯人がお前だ」の攻略本でもあるらしい。内田樹の「物語の構造分析」にものすごく見事な解説があるので、ぜひ、多くの方に読んでもらいたい。「盗まれた手紙」が教えてくれる攻略法とは、人は秘密をどのように隠すのか?という点と、秘密の持つ機能である。

まず、人は秘密をもっとも目のつきやすいところに隠し、秘密を暴く人は自分が隠しそうなところを探す。という教訓である。「盗まれた手紙」では大臣は盗んだ手紙をリビングの状差に隠し、そこには何もない、というフリをしなくてはならなくなって動きが怪しくなる。それを探す警部は、自分が隠しそうな屋敷の屋根裏とか、椅子の隙間などを探すので見つからない。

では、「犯人がお前だ」に何かが隠されているとして、それはどこに隠されているのか?誰にでも目に付くが、あまり覚えてないところというと、冒頭ではないだろうか。

「犯人はお前だ」の冒頭は以下である。

I WILL now play the Œdipus to the Rattleborough enigma. I will expound to you — as I alone can — the secret of the enginery that effected the Rattleborough miracle — the one, the true, the admitted, the undisputed, the indisputable miracle, which put a definite end to infidelity among the Rattleburghers, and converted to the orthodoxy of the grandames all the carnal-minded who had ventured to be skeptical before.

(さあ、ラトルバラの謎にオイディプス役を演じるぞ。ラトルバラの奇跡を起こした仕掛けの秘密を、私しかできない方法で、君に明かそう。唯一の、真実の、認められた、議論の余地のない、議論の余地のない奇跡。ラトルバラの人々の不貞に決定的な終止符を打ち、それまで疑念を抱いた肉欲の持ち主たちを皆、老女たちの正統な教えへと改宗させた奇跡だ。)

これを見る限り、本作を読むときには、オイディプスの神話の”infidelity”(この後には不貞という意味が強いようだ)を意識しろ。と、WILLの強調からこれから悲劇は起きる。と言っているように見える。では不貞とは何か?悲劇とは何か?となるが、何しろ名前がついた登場人物が3名+語り手の4名だけの世界なので、文章の矛盾や言い回しを手がかりにいろんな可能性を推測できるだろう。グッドフェロー氏が、ペニフェザー氏のことを、シャトルワージー氏ではなく「グッドフェロー氏の相続人」と呼んだという一件だけからも、やおい的な妄想の世界がいくらでも展開できそうである。

次の疑問は、「語り手」をどれくらい信頼するのか?である。「 謎ときエドガー・アラン・ポー」では、「語り手」の語りの微妙な矛盾から(一つの出来事を伝聞として記述したときと、自分の体験として記述したときに内容が異なる)、「語り手」をいわゆる「信頼できない語り手」とみなし、「語り手」が話す内容の一部(シャトルワージー氏が酔っ払って、シャトーマルゴー1ケースをグッドフェロー氏にプレゼントすると言っていたという、語り手の証言)が虚偽であると主張してる。

確かに、「語り手」自身が、「捜索の結果、何の手がかり(no trace)も得られなかった」。と言った後、「When I say no trace, however, I must not be understood to speak literally; for trace, to some extent, there certainly was.私が手がかりがないと言っても、それは文字通りに受け取られるべきではない。」と警告してくれている。

では、記述の微妙な矛盾や、「語り手」自身の警告をもとに、読み手はテキストの一部を虚偽とみなしていいのだろうか?もちろん、正解はもはや存在せず、全くもって自由に読んだらいいので、どこをどう虚偽を見なすのもアリである。が、やはり、ここでは「意図的ないい落とし、誇張はあるにせよ、テキストにあからさまな虚偽はない」という前提に立って解読を進めるべきではないだろうか?理由は2つあり、1つ目はそうしないとなんでもアリになってしまい、ゲームとして収拾がつかないこと、また、善意の原理(テキストの内容は概ね正しいとして解読する)を適用した読解の方が、面白いに決まっているからだ(学生の頃、この善意の原理が、レーブの定理そのものであり、推論者が決定不能状態になる、という「科学論科学史基礎論」のレポートを書いたことがある。が、内容は忘れた)。

「語り手」がわざわざ警告しているからには、「犯人はお前だ」のどこかに、文字通りに受け取るべきはない場所があるのだろう。さらに、何かがそこにない、と言っている場所に限られる。そこで「no なんちゃら」という表現を本文中で検索すると22ヶ所ある。このうち、「語り手」の1人称の部分でもっとも印象的な用法は no doubt で、例の怪しい部分である。

私は「オールド・チャーリー」が旧友からワインを受け取ったことについて何も言わないという結論に至った理由を何度も想像して頭を悩ませてきましたが、彼が沈黙していた理由を正確に理解することはできませんでした。もちろん、彼には何か素晴らしい、非常に寛大な理由があったに違いありませんが。I have often puzzled myself to imagine why it was that “Old Charley” came to the conclusion to say nothing about having received the wine from his old friend, but I could never precisely understand his reason for the silence, although he had some excellent and very magnanimous reason, no doubt.

要するに、秘密にしておきたい何か素晴らしくない、寛大でもない理由があったのですよ、と言っているように読める。

このように、気になった読者は、あれこれ推理するのである。ここが「盗まれた手紙」が教えてくれる攻略法に再び目を向けるタイミングであろう。それは、秘密を暴こうとするわれわれは、自分が隠しそうなところを探す。そして、何かを見つけたとしても、それは、自分の願望(たぶん自分が隠しておきたいもの)の反映でしかない。という点である。われわれは自分の推理を通じて自分に出会うのだ。

それから、秘密(手紙)を盗んだ人は、秘密の持つ権能に抗えず、必ず秘密を盗まれる側に回るという構造を持っている。という秘密の機能である。「犯人はお前だ」つまり「私は貴方の秘密を知っている」言って、勝とうとすると必ず次に負ける。という教訓である。一昨年度にミステリ大賞を総なめした「地雷グリコ」でも、主人公が、「ゲームの必勝法とは相手に勝ったと思わせることである」と語るように、広く知られている教訓であり、皆よく理解しているハズであるが、どうしても「犯人はお前だ」と言いたくなる欲望になかなか勝てない。少なくとも「 謎ときエドガー・アラン・ポー」を書いた竹内氏も、こんなブログを書いている私も、秘密の持つ機能に抗えず、必敗の道を歩みつつあるのだろう。いつか竹内氏と読者である我々は、誰かから「犯人はお前だ」と名指しされる番が来るはずである。楽しみである。

ちなみに、「物語の構造分析」では、負けない方法も教えてくれる。あえて負けてみせること(これは地雷グリコの教訓おなじ)。秘密をパスすることである。「 謎ときエドガー・アラン・ポー」は大変優れたパスであることは間違いなく、少なくとも私はそのパスを受けた。





2025年4月12日土曜日

暇と退屈の倫理学

「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)を読んだ。オーディブルで聴いて驚いた。 「暇と退屈」こそが人間の根幹にあるという視点を通じて、農耕の起源から、マルクスの疎外論、ハイデガーの現存在に、ドゥルーズ、はやりの脳科学まで語りつくしてしまうのだ。 例えば、農耕が始まってから、国家の形成までの4000年の間、いったい人類は何をしていたのかが全然解明されていない。スコットの「反穀物の人類史」でも、農耕の社会が何度もできては崩壊してきたこととか、グレーバーの「万物の黎明」でも、説明に窮して、その間遊戯的な農業が行われていたに違いない。という概念の提出にまで至っている。定住しなくても狩猟採集で豊かに暮らせたのだから、定住して農耕するメリットなど全くないのに、あえてそれを選んだ理由がみつからないことに歴史家たちは困惑してきた。「暇と退屈の倫理学」でも、狩猟採集で非定住こそ、日々新しい刺激にあふれたヒトが大好きな生活であるのに対し、農耕で定住するとヒマになってしまうことが指摘されている。が、ヒマの退屈に耐えられない人が暇つぶしにいろいろ試すと、文化ができたり専制国家ができたりするんじゃないか、という説明はこの問題に面白い視点をもたらすように思う。さらに、マルクスの疎外論では、退屈=疎外と定式化される。そうすると疎外される以前の「(暇じゃない)本来のあるべき姿」がどうしても想定される点が限界だと本書は指摘している。ほぼ同じ議論は、これまたグレーバーが「ブルシットジョブ」でしているのだが、疎外の解消ではなく、疎外を生み出す構造だけを問題とすることで、そもそも論をうまく回避していたりする。國分功一郎がグレーバーについてコメントしているならぜひ読んでみたいと思った。また、ハイデガーのこういう平明な解説はいままで見たことがないので画期的なんじゃないだろうか。全く知らない内容だったのでとてもためになった。
「暇と退屈の倫理学」は、人間が何もすることのないヒマになると、退屈に耐えらなくなって、どうしても何かしたくなる本性を持っている点に立脚している。本書の懸念は退屈して何かしたくなった時に、「これを信じておけばOK」的な安易かつ一元な価値基準を採用して、他人を見下したり、批判したり、戦争したりするような暇つぶし方が幅を利かしている現状にある。そこで、そうならないように生活や趣味のなかに、楽しみを見つける教養こそが大事だ。というのが本書の主な主張である。一元な価値基準を採用への対抗軸としては、有用というか、すごく人にやさしい議論である。しかし、気を付けなくてはならない。これはもう完全に、「庶民には日々の暮らしや学問に楽しみを見つけさせて、吾輩の支配体制に不満を持たせないようにしようぞ。わはは」、という支配階級のロジックそのものでもあるからである。人はパンのみに生きるのではなく、、、という話のあとに、薔薇を求めていい(でも銃はダメ)、という國分の超上から目線は、極めて危険な政治的立ち位置であるように思える。革命が不要な社会、ということは、革命後の社会なのであり、そこでの生活の意味を担保する記号的中心に何を持ってくるのか(天皇?)が興味深い。あと、この本を聴きながら、「ゲーテはすべてを言った」(鈴木 結生)を思いだした。この本は、ゲーテ研究科の大学教授が、レストランで見つけたゲーテの言葉「Love does not confuse everything, but mixes.」が本当にゲーテのものなのか?という謎に人生を賭して臨んでいくという話である。学者のはしくれとして、感動なしには読めない。でも、これを読んでいると、金井美恵子の「快適生活研究」も思い出さざるを得ないのである。このなかに、目白在住で「よゆう通信」という個人新聞を定期的に知人に配っているリタイアした建築家、というのが登場する(もちろん金井美恵子はこういうのを死ぬほど馬鹿にしているのだ)。ゲーテ研究家の大学教授も「よゆう通信」を発行する元建築家も、パンには困らないので、バラの美しさを楽しめる、國分功一郎が理想とする教養豊かな人たちであるように思う。「暇と退屈の倫理学」以降の展開と「よゆう通信」の関係をみてみたいので、國分功一郎の続刊を聴いてみようと思う。