先日、JRのまほろば線にのってヤマト王権発祥の地と言われる纏向遺跡を見に行った。巻向駅のまわりは奈良の町はずれって感じでのんびりしていた。すこし歩いていくと3世紀前半の掘立柱建物の遺跡が住宅地のちょっとした公園、って感じで無造作に突如現れて驚いた。南には3世紀前頃につくられた最初期かつ最大の前方後円墳である箸墓古墳が見える。
現地に行って感じたのは、なぜ、ここなのか?である。3世紀前半にはここでヤマト王権を始める理由があったはずである。それは何か?よく、ここは大阪湾から大和川を通って伊勢に抜ける交通の要衝だからと説明されるが、纏向は5世紀までにはあっさり衰退したと言われており、いまいち納得できない。また、3世紀中盤は魏志倭人伝で卑弥呼率いる女王国が魏に使者を送ったりしていた時期のハズで、邪馬台国と纏向遺跡の関係はどのように説明されているのか大変気になった。
そこで、学会に出かけるお供に古代史の親書をいろいろと読んでお勉強してみた。
1.「『日本書紀』だけが教える ヤマト王権のはじまり」 (扶桑社BOOKS新書) 伊藤 雅文 (著)
本書は出版された2019年に読んでいたが、うろ覚えだったので確認した。
・日本書紀に書かれた紀年は水増しされている(唐とタメを張るために、初代神武天皇は紀元前660年即位にすべくサバ読んでいる)
・いろいろと紀年を復元する試みはあるがあちこち無理がある。
・日本書紀は10代崇神天皇以降は編年体で記されている。中国の文献の編年体では1年1事績書くルールとなっている。
・そこで、もともと日本書紀は編年体の1年1事績ルールで書かれていたが、サバ読むことになったときに、単純に年を飛ばして水増ししたのではないか?という仮説を立てた。
・仮説をもとに1年1事績ルールに戻してみたら、10代崇神天皇の即位年は西暦301年になった。崇神天皇以前は架空の大王だとおもわれるので、ヤマト王権のはじまりでもある。
というものである。年表は著者のブログにも公開されている。なんとなく、ほかの説よりも話がシンプルで無理がないような気がする。
もしこの説を採用すると、纏向遺跡・箸墓古墳は崇神天皇以前、ということになる。
2.「古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 ) 白石 太一郎 (著)
1999年の本である。古墳を発掘して得られた考古学的な知見をもとに、古墳を造営した政治勢力の形態を推定している。前方後円墳の出現を画期として古墳時代が始まった。
・前方後円墳の先祖は2世紀の後半に吉備で作られた楯築墳丘墓であるとされる。円墳の双方に方形の出っ張りがある。
・3世紀初期の纏向に小型の前方後円墳が突如出現し、3世紀中盤には墳丘長278m、高さ30mの超巨大な箸墓古墳ができる。
・箸墓古墳には吉備の古墳の特徴である宮山型特殊器台・特殊壺がおかれていた。
・同じころ、吉備地区、豊前、玄界灘地域にも全く同じ様式の前方後円墳が出現した。特に吉備地区の茶臼山古墳、豊前の石塚山古墳、箸墓古墳と全く同じ設計でサイズが1/2となっている。
・こういう古墳の分布から著者は「こうした古墳の出現の前提となった広域の政治連合が、機内の大和を中心に形成されていたことを物語る。」「畿内大和から瀬戸内海沿岸各地を経て玄界灘沿岸に至る海上交通路にあたる地域にほかならない。さらにこのルートが朝鮮半島に及ぶものであったことは疑いなかろう」「弥生時代に朝鮮半島との交渉に中心的な役割を果たした玄界灘沿岸地域にはあまり大きな出現期古墳がみられず、むしろ北部九州でも瀬戸内海の豊前に最大規模の出現期古墳がみられることも注目される。このことは出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとするさまざまな先進的文物の輸入ルートの支配権をめぐる、玄界灘沿岸地域と瀬戸内海沿岸地域の争いにあったことを示唆するものではないか、わたくしは考えている。」とまで思弁を拡げる。
・このころ日本列島社会は鉄を朝鮮半島から輸入していた。たしか鉄の輸入路を押さえたものが勝ちだろう。
・これを裏付けるものとして弥生V期(2-3世紀)まで中国鏡の分布の中心が北部九州にあったのが、古墳時代(3世紀中盤)になると畿内を中心とする分布に一変する
ことなどが述べられる。
・さらに「古墳出現の前提となる広域の政治連合の成立が、三世紀初頭の邪馬台国連合の生成立に他ならないとすると、中略、出現期古墳を生み出した政治秩序は、その後のヤマト政権の政治秩序そのもの」として、邪馬台国大和説へと発展し、日本書紀が箸墓古墳の被葬者が天皇の娘で三輪山の神オオモノヌシに使える巫女であったヤマトトトヒモモソヒメと伝えることから、「箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性は決して少なくないと思われる」とまでのべている。
本書はこのように各時代の前方後円墳の分布から、当時の政治的状況を再現しようと試みる。また、古墳の副葬品として重要な「三角縁神獣鏡」についてもどこでだれが作ったのかがはっきりしないむつかしい問題になっていることを教えてくれる。
3.古墳の古代史: 東アジアのなかの日本 (ちくま新書 ) 森下 章司 (著)
2016年出版。本書は日本の前方後円墳を東アジアの歴史の中で解読しなおしてみるという試みである。読むと日本列島社会が紀元前から朝鮮半島とものすごく密接に関わりながら共通点を持ちつつ、相違点も際立たせながら発展してきたことがわかる。中国、朝鮮は穴を掘って埋葬し、その上に土を盛るのに対して、日本列島は土をもってその上に穴を掘って埋葬するという大きな違いがある。このように古墳の比較考古学から、各国の習俗や文化を読み取ろうとするのが本書の特徴である。
・纏向にヤマト政権ができ始めていたころ中国は189年に後漢の霊帝が死去し、各地は群雄割拠となっていた。220年~280年は魏・呉・蜀の三国が分立対抗した三国志の時代に当たる。中国の極東窓口だった帯方郡は魏に乗っ取られたり(238年)、さらに、魏も晋に乗っ取られたりして(265年)、帯方郡を通じた中国からの影響力が著しく低下した。
・本書の指摘として面白いのは、そしてちょうどその時期に日本列島の墳墓が一気に大型化したというものである。親分の中国に遠慮して墳墓を小さめずっと我慢していたけど、250年ころ親分の力が落ちてきたので、よっしゃこの隙に作ったれとどかんとつくったのが箸墓古墳ということなんだろうか。。ただし本書は邪馬台国のありかについては首をつっこまない。
4.記紀の考古学 (角川新書) 森 浩一 (著)
2005年に出た朝日文庫版を角川新書に2024年に採録したものと思われる。この本の著者は、記紀と考古学的知見のつじつまをあわせることを中心テーマに据えた研究を展開し、仁徳陵を大仙古墳と呼ぶべし、と言い出したりした影響力があるひとだったらしい。また、邪馬台国畿内説を厳しく批判しており、前方後円墳の波及をヤマト王権の確立と連動させない。学者の書いた歴史書というお堅い本ではなく、記紀と考古学的知見について、著者が思いついたことを十全に語るというエッセイの趣が強く、「自分のためのメモとして記すが」などという気楽な書きぶりとなっている。逆に、教科書的な要素は小さいので、記紀と周辺の考古学的知見についてよくしらない、私のような初学者にはついていくのが大変だった。この本をぱらぱらと読めるようになりたいものである。
5.大和朝廷と天皇家 (平凡社新書)武光 誠 (著)
2003年に出た本。Wikipediaをみると著者は年に4冊ペースくらいでめっちゃいっぱい本を書いているすごいひとらしい。本書も通史というよりはいくつかのトピックごとに基礎知識を説明しつつ、著者の博覧強記の語りを大いに楽しむという構成となっている。
纏向については260ページに「交易の核、纏向」と一節をもうけ、纏向の遺跡からは人工運河跡や「口市」と墨で書かれた土器などが見つかっている。また、関東から中国地方の様式の土器が占める割合が高い。ということから、やはり、「纏向が全国の交易の核として栄えたありさまがわかる」としている。やはり交易の結節点なのか。。
6.古代史講義 (ちくま新書) 佐藤 信 (編集)
2018の本。古代史に関する新知見をトピックごとに説明したアンソロジー。第一講「邪馬台国から古墳の時代へ(吉松大志)」にはいくつか興味深い説明がある。魏志倭人伝が示す邪馬台国までの距離が謎とされてきたが、これは中国が王化の範囲とみなす東西2万八千里のちょうど端っこ、つまり王化の東の端だということを示しているらしい。また、中国と日本列島の交流チャンネルも邪馬台国<=>帯方郡だけではなく、山陰<=>朝鮮半島 など複数あり得、古墳時代になって弥生時代の交易システムが終焉し、ヤマト王権が仕切る交易体制にシフトしたのではないかとのべている。はっきりとは述べていないが、弥生時代の交易システム=邪馬台国が衰退し、4世紀までにヤマト王権が仕切る交易体制(宗像沖ノ島祭祀が象徴)にシフトしたといいたいように見える。
7.つくられた卑弥呼― 女の創出と国家 (ちくま新書)義江明子 (著)
2005年の本。記紀の読解にジェンダーバイアスがかなり入っているというもの。もともと男女双系の社会だった日本では女性の大王も普通にいたし男女で尊称にちがいはなかったらしいのだが、中国からみると珍しいので女王とわざわざ呼ばれた。また、日本書紀は男女の尊称に違いが持ち込まれ、それが古事記の解読にも影響を与えることなどが述べられる。また名前の読解がおもしろい。「三世紀においては、「ヒ」は各地の酋長が名乗っていた称号であること、四世紀以降、のちにヤマト朝廷につらなる政治勢力が「ヒ」を独占し、「日の御子」を名乗りはじめ、天孫降臨神話の完成にいたる、という歴史的推移も見えてくるのではないか」と述べている。
さらに、日本書紀が箸墓古墳の被葬者とするヤマトトトヒモモソヒメ(崇神天皇の大叔母)についても、ヤマト、トト、ヒメはヤマトの高貴な女性の称号的名称(他の名前にでてくる)、モモソは「永くつづく」という意味の称え名か?となると残るのは「ヒ」である。「箸墓古墳が、中略、ヤマト王権成立期の始祖的王の墓であることは動かない。朝廷の手でまとめられた最初の正史である「日本書紀」がその墓に葬られた人物を、女性と伝えているのである」としたあと、「ヒ」という名前とアマテラスや卑弥呼と関連をほのめかしている。
8.日本書紀「神代」の真実 - 邪馬台国からヤマト王権への系譜 - (ワニブックスPLUS新書) 伊藤 雅文 (著)
2020年の本。10代崇神天皇の即位年を西暦301年とした著者の近刊である。この著者は主に日本書紀の読解から、邪馬台国は近畿にはありえない。熊本だ!という本を出していたりする。本書の主張は、崇神天皇=神武天皇として、記紀の神代の記事にある、出雲の国譲り、神武東征などを、歴史として再構成することにある。それによるとアマテラス=卑弥呼は崇神天皇=神武天皇の3代前で175年ころ誕生、崇神天皇は250年ころのうまれで国弓弦は260年ころ東征は295年ころになるらしい。おもしろいだが、あまり考古学的な知見との整合性は意識されていないように思う。いちおう箸墓古墳とヤマトトトヒモモソヒメについて触れているが著者の再構成した歴史にはあまりしっくりはまっておらず、「箸墓古墳は築造年代がまだ確定されていない。研究者によって、三世紀半ばから四世紀半ばまで語られる年代に大きな幅がある」としてじゃっかんすかし気味に避けているような印象を受ける。
9.農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史①〉 (岩波新書) 石川 日出志 (著)
2010年。岩波新書のシリーズ 日本古代史の1巻目。これはとても素晴らしい弥生時代の教科書となっている。最初からこれを読めばよかった。
前方後円墳出現までの弥生時代末期までを範囲としており纏向についても当然ふれられている。まず、「本書では、考古学的に見て、弥生中期後半~後期に北部九州で最有力であった地域は奴国と伊都国の領域であるにもかかわらず、伊都国が「世々王あるも、倭女王国に統属」したことから、邪馬台国所在地には北九州以外のいずれかの地域を考えざるをえないとみる。中略。考古学的方法によるかぎり、定型的前方後円墳の形成や、中略、の核となった地域として奈良盆地のとくに東南部をあげることに異論はないであろう。」と明快である。
また、
・畿内は弥生時代中期に勢いがおとろえる(遺跡の規模が小さくなる)
・吉備、出雲地域では弥生時代中期ー後期に共同体の祭祀にもちいた銅鐸が一気にすたれ、そのかわりに強い権力をもった個人を埋葬した墳丘墓が出現する。
・その後突如纏向型前方後円形墳丘墓が3世紀初めころ出現する。
・前方後円形墳丘墓は吉備の伝統を引く。
・前方後円形墳丘墓の棺は北九州の様式らしい。
・そのころ漢鏡の分布も北九州から奈良盆地に中心を移す。
という流れであることが述べられる。
ひとまずまとめ
ということで、いろいろ読んでみたが、最初の疑問はまだ謎である。
・三輪山のオオモノヌシは出雲から来た神様らしい。三輪山の南側には「出雲」という地名まである。
・纏向で見つかる土器には他地域ものの比率が高い。
ことから、どうも日本中の勢力が3世紀の初めころ、纏向を目指したようなのであるが、それが何なのかの説明はみあたらなかった。
ある時期に町が極端に栄えて衰退するのはのは鉱山町である。この時期、三輪山周辺に、鉄鉱石あるいは朱か水銀の鉱床が見つかり、それを基軸とした交易圏が形成された。というような話もあり、そうじゃないかなとも思う。ただ、記紀の記述とも、上記の考古学的な知見ともあまり合わないように思う。謎は深まる一方である。