2024年7月15日月曜日

成熟の喪失 庵野秀明と“父”の崩壊

「成熟の喪失 庵野秀明と“父”の崩壊」(佐々木敦、朝日親書)を読んだ。

著者の佐々木氏は、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」をみて、江藤淳の有名な「成熟と喪失 “母”の崩壊」を思い出し、このオチでしかありえないのかと思ったらしい。

私は、実は、エヴァはテレビ版の録画を1995年末に友人に借りてまとめてみて、それ以降、一切手を出していない。シン・ゴジラとシン・ウルトラマンは見たけど、シン・仮面ライダーは見れなかった。あと、1967年に書かれた「成熟と喪失 “母”の崩壊」も読んでない。ので、佐々木氏による解説は、非常にためになった。

「成熟と喪失」とは、男の子が一人前の大人になるには、母(とか妻とか故郷とかそういういう感じのもの全部)に拒まれて喪失し、喪失感の空洞のなかに湧いてくる「悪」??をひきうけることでしか、成熟できないという論考であったらしい。

一方、「新世紀エヴァンゲリオン」とは、碇 ユイを喪失した、碇ゲンドウがユイと再開するために人類補完計画を進行させ、14歳の息子、碇シンジをシトとの戦いに巻きこむ。碇シンジは責任を取りたくないのでやる気は全くないまま、いやいや付き合わされる。「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」のオチとは、碇ゲンドウが人類補完計画とユイとの再会を断念し、碇シンジに謝罪をする。碇シンジも言挙げして成熟して真希波マリをゲットし、元気よく駆け出して終わる。と説明される。

碇ゲンドウの断念が、成熟の放棄あるいは喪失なのか、映画を見てないのでよくわからないが(成熟そのもののようにも聞こえるのだが)、佐々木氏は、そこから、母も父も崩壊し、成熟して大人になるという考え方そのものが放棄されたのが現在の日本の風景である。と言いたいようである。

1つ目の感想は、これらすべては「俺って大人?成熟ってどうやってするの?成熟って何?」という自問自答の中にあるという点である。一方、多くの方は実感しているいと思うが、大人がいて、そこに子供ができるのではなく、子供という最大の他者という存在がどかんとやってくると、そこに大人が生まれるのである。先生/生徒もしかりである。大人は子供を前にしてどうしていいのかわからず、おろおろしつつ、自分が子供のころに大人だとおもっていた先人たちも実は同じだったんだなということに気づくことになる。

2つ目の感想は、「母も父も崩壊している家族」の話のレディースコミック版は、吉田秋生の「海街diary」である。主人公3姉妹の父も母も、親としての役割をだいぶ前に放棄している。また、あとから家族に加わる、異母妹のすずちゃんは、これまた母も父も崩壊している家族で、大人の役をやらされていた中学1年生として登場する。父の葬式ですずちゃんに喪主挨拶をやらせようとする母に対して、参列していた長女は幸は「おとなのすべきことを子供に肩がわりさせてはいけないと思います. 子供であることを奪われた子供ほど哀しいものはありません」という。3姉妹と鎌倉で暮らすことになったすずちゃんは、いったん子供になり、それからまた正しく大人になるという手順を踏む。お父さん以外だれも死なない。。

3つ目の感想は、そうこうしていたら、同じく吉田秋生の「櫻の園」を思い出した。主人公の女の子の一人、敦は(高校3年?)は、結婚を控えた10歳離れた姉が語る高校生の時の思い出話を聞きながら、10年後の自分は、今の自分を、きっとこのように見るのだろうと、大人になった自分のシミュレーションをしていた。という話を、20年くらい前に知り合いのお姉さんとしながら、「女の人ってすごいですよね」、とコメントしたところ、「そうなのよ、女の子ってすごく大人なのよ、高校のころの男子が想像する女の子なんて、どこにもいないのよ。」と言っていたのである。崩壊も何も、そんな母、碇ゲンドウの望むユイはそもそも存在してないらしい。



2024年7月10日水曜日

信長の野望・全国版の音楽

50代以上のおじさんおばさんは、子供のころ「信長の野望・全国版」に青春の時間を吸い取られた人も多くいたと思われる。ファミコン版のカセットが9800円とめっちゃ高価だったわりには、グラフィックがショボく、持ってるだけでそこがまた、かっこよかったのであります。またPC8801などのPC版は、そもそもPCを持っている人は極めて希少だったため、「信長の野望・全国版」が動いているのは広島の紙屋町の「ダイイチ」のPC売り場だけだったように思う(中学生のころ通ってった)。

この「信長の野望・全国版」の忘れられない記憶として、音楽がある。とくに戦場の音楽がすごくかっこよく、「信長の野望・全国版」をもっている友達の家で、なにしろ戦争中短い曲が延々と繰り返されるので、すっかり頭にこびりついてしまい、今でも全フレーズ思い出せるのであります。そのようなファミコン音楽はあまりありません。

その後、1998年ころ片岡仁左衛門がでていたNTTの「情報の旅人編」(そうだ、人間がマルチメディアなんだ、っていうやつ)の音楽のあまりのカッコよさに、雑誌でしらべたところ、「菅野よう子」という人が作曲者であるとわかりました。菅野よう子さんはその後、アニメ、CMなどいろんなろころで大活躍してます(復興ソングの「花は咲く」も作曲)。

で、昨日何の気なしに調べていたら、あの、「信長の野望・全国版」の音楽が菅野よう子さんの最初期の仕事(22歳ころ)であることが判明。おどろきました。頭にこびりついている音楽の両方が、同じ人の曲であったとは。

ゴーイング・ゼロ

ゴーイング・ゼロ  (アンソニー・ マクカーテン、小学館文庫)を読んだ。週刊文春の新刊紹介を見て面白そうだったので暇な時間に読んでみました。FacebookとGoogleを足して2で割ったような仮想のテックジャイアント企業が、手持ちの個人情報収集網の有用性をテストするために、10人の被験者を集めて「30日間鬼ごっこ」をする。というお話。個人に紐づいたカードで支払いをしたり、自分の口座から現金を引き出したり、スマホの電源を入れたりすれば一発で位置ばれし、監視カメラ+個人識別AI+ドローンでどこまでも追いかけてしまえる。さらに、FacebookやらGoogleやらXやらの活動記録から、個人の思考パターンが推測され、どこに隠れたりしそうか、まで先読みされるたりもするのである。

全員捕まえられるとCIAとの契約が、、とか、主人公の旦那さんが、、とか、実は協力者がとか、大どんでん返しポイントも多く、映画化とかされそうな話であるが(著者はもともと映画『ボヘミアン・ラプソディ』などの脚本家らしい)、「ジャッカルの日」みたいな、もうちょっとプロ対プロの冷酷かつロジカルな技の繰り広げあいを期待していたので、主人公の個人的な動機にもとづく云々、、というのがイマイチでした。