「大使とその妻」(水村美苗、新潮社)を読んだ。秋に京都の丸善で発見したときは、うーんどうしようと迷いつつ、上巻のみを購入、読み始めてすぐ下巻を買わなかったことを後悔し、翌日の出張前に千里中央の田村書店に駆け込んで購入し(あまりに急いでいたので、レジで支払った後、商品を持たずに店を出て、店員さんが追いかけて持ってきてくれるミスまでした。あの時の店員さんありがとうございました。)、飛行機の中で読了した。
20年くらい前、百万遍のバーPost Coitusの読書部で漱石の「明暗」がお題となったとき、延々と続き、かつ未完に終わった「くれと言わないからあげないVSあげると言わないからもらわない」論争への一つの解釈として「續明暗」を読み、あまり納得しなかったのが、水村美苗との出会いだったように思う。その後、「本格小説」が文庫で出たときに、仕事を休んできゃあきゃあ言いながら一気読みして、最後にものすごい衝撃を受けたが、続けて読んだ「私小説」はいまいち乗れず、「新聞小説 母の遺産」は介護ものと聴いて、手を出せてはいなかった。今回、「大使とその妻」購入時に、乗れないほうの水村美苗だったらどうしよう、とちょっと迷ったのだが、杞憂に終わってうれしい。
「本格小説」はよく言われるように3層からなる。
一番内側の層は、軽井沢のはずれにひっそりと住む東太郎と冨美子のもとに、祐介という青年が紛れ込み、その時、冨美子が語った、よう子と東太郎の物語である。ここは、「嵐が丘」がモチーフとされる「本格小説」部分であり、すごく非現実的な話なのであるが、その語り口の優雅さ、ドライブ感をきゃあきゃあ言いながら堪能すればよい。
2番目に、祐介が語り手の層がある。祐介が軽井沢で、東太郎と冨美子のもとに紛れ込んだ経緯と、冨美子の話を聞き終わった後の後日談が語られる。「本格小説」においてもっとも衝撃を受ける場所は、「冨美子が語ったよう子と東太郎の物語」では語られなかった物語が突如現れ、一番内側の層そのものの見方が変わってしまう、この後日談の部分であろう。
一番外側の層は、その後編集者となった祐介から依頼されて、1番目と2番目の物語を本書にまとめた自称筆者の層である。筆者は前書きに語り手として登場し、本書を書くに至った経緯と、幼少の頃、父親の仕事の都合で住んでいたニューヨークで出会った、東太郎という人物に関する記憶をありありと語る。この前書きだけで上巻の半分以上を占めているのだが、これを読み切った読者は、東太郎とは実在の人物なのか?と疑いを持つことになり、そのまま突入した本編をより堪能できるようになる。という仕組みになっている。
「大使とその妻」を読んで感じたのは、「本格小説」との構造類似性である。
一番内側の層は、軽井沢に住むケヴィンの隣に引っ越してきた、元大使の篠田氏とその妻、貴子がケヴィンに語った、貴子の生い立ちと出会った後の二人の物語である。この部分だけでも、「日本人とは?」など論点はいくらでもある。
二番目の層は、軽井沢に住むケヴィンの物語である。大使とその妻のもとに紛れ込み、一番内側の層の話を伝え聞く役割である。篠田氏と貴子が軽井沢を去った後の後日談も語られる。本書はこの部分のウェイトがかなり大きくなっている。また、この人の倒錯ぶりも「日本文化とは?」などの論点からいくらでも語れるであろう。
ここまで舞台と構造が似ていると読者が「本格小説」を意識してしまうのはしょうがないだろう。一方、本書では、三番目の層がこれ見よがしになく、また、一番内側の層では語られなかった「大使とその妻の物語」の見方を変えてしまうような物語、もない。ここまで、はっきりあるはずのものがそこにないと、私のような勝手な読者は「それは、あるのだけど、隠されている。」と邪推し、「ではそれはどのようなものであったのか」と考えてしまうのであった。最高の読書体験であると言えよう。
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