2015年6月17日水曜日

「正しく」読もうとしないこと

 システム生物学が、データの背後にある事実に関するお話を作る作業であるとするなら、サイエンスという小さな枠を超えたいろんな観点からその作業について吟味できるようになるでしょう。内田樹は「映画の構造分析」において数多くの吟味ポイントを示唆してくれています。例えばわれわれはデータの何かを見落とすことがあります。引用します。

 無知というのはなにかを「うっかり見落とす」ことではなく、何かを「見つめ過ぎて」いるせいで、それ以外のものを見ない状態のことです。それは不注意ではなくて、むしろ過度の集中と固執の効果なのです。(略)。
 私たちは何かを見落とすのは、不注意や怠惰のせいではありません。「見落とすこと」を欲望しているからです。そして「「見落とすこと」を自分は欲望している」という事実を見落としているからです。
 私たちが隠れている何かを組織的に見落とすのは、抑圧の効果なのです。
 ですから抑圧の効果を逃れるただ一つの方法は、自分の目に「ありのままの現実」として映現する風景は、私たちが何かから組織的に目を逸らしていることによって成立しているという事実をいついかなるときも忘れないこと、それだけです。 (「映画の構造分析」p116-7、文春文庫)

 私たちはなにかいつもかならず見落としているわけです。見落としているものを見つけるのは容易ではありませんが、おそらくそれは(なにしろ見落とすことを欲望するくらいのことですから)いやな感じの、目を背けたくなるような、できれば避けて通りたい何かとして見つかるはずです。

そして「正しくデータを読みたい」という気持ちこそが見落としを生む。のです。引用を続けます。

 ですから、今私たちがしているような「謎解き」もまた常に「(私はデータの背後にある真実を知りたいという)欲望の見落とし」の問題と背中合わせであることを忘れてはなりません。謎解きとか解釈とか推理というのは、要するに「お話」を一つつくることです。その解釈はおのれの欲望が生み出した「お話」です。そして、自分が作り出した「お話」を私たちは実に簡単に現実と錯認してしまうのです。
 分析者=解釈者は「病識」を持ち続けなくてはなりません。「私の解釈」は「私の欲望」の関数であり、その欲望は他人の目には筒抜けであり、その事実から私は全力を挙げて目を逸らそうとしている、ということを意識し続けていなければなりません。(略)
 解釈者の仕事は「パスする」ことです。(略)。「できるだけ多様な次なる解釈の起点になりうるような解釈」こそが「よいパス」なのです。(「映画の構造分析」p144-6、文春文庫)

 できるだけ多様な次なる解釈の起点になりうるような、大規模データの解釈、という読み筋があるとすれば、それは「どきどきわくわくするようなお話」となると思われます。となるとデータを読むコツはまず第一に「正しく」読もうとしないこと。次いで「おもしろい話をつくろうとする」ことと言える、のかもしれません。


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